無意識日記々

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向かうののと夜見るののと

『夢と現実』を対比させかつ『愛とは現実を受け入れる事』という命題を掲げる。ヒカルは、つまり、夢と愛を(一貫して)対となる言葉の組として捉えている。

更に、夢には向かうのと夜見るのの2つがある。愛と対になっているのは向かうのの方だが、ヒカルの詞には夜見るのも出てくる。更に「眠る」という行為を通じて夢の世界というものも描く。『Beautiful World』などを思い出してくれれば。

ヒカルにとって夢の世界とは悪夢の世界でもあり、あなたにとってそれは「現実の方がイージーモード」な事を意味する。ヒカルがエスケープするのは耐え難い苦しみと恐怖の世界に満ちた悪夢の世界ではなく、冷徹だが理路整然とした現実の方なのだ。世界は空間を隙間無く埋め尽くしては消滅し次の時刻に進むテトリスのようなものだから。

そのヒカルが『夢にエスケープ』と歌うのだから皮肉というか何というか。

実際、この歌での現実の描写はそこまで惨たらしくはない。『戦うのもいいけど疲れちゃった』『街のざわめき心地いい程冷たく優しく包んでくれる』『泣いて笑って傷つくのもいい』という風に、色々あるけどまぁなんとかなるかな、くらいのニュアンスだ。

現実はここまで惨いものなのか、といいながら夢にエスケープするならわかりやすいが、そうでもないのに『夢にエスケープ』と歌うのはなぜなのか。君がいたりいなかったりするから、だ。ここまで踏まえた上で、漸く前回の日記の続きが描ける。次回、その話から、になるかどうかはまだわからないけれど。気まぐれなんだよね自分。