無意識日記々

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DREAMing of YOU

鍵は『dreaming Of You』にある。「君の夢を見る」。歌詞としては何て事はないが、この一文で『夢』と『君』が繋がるのだ。

『In My Room』は片想いの歌だ。それは間違いない。『廊下ですれちがったけど 君は気づかない 名前すらきっと知らない』のだから。

その"普通の解釈"には一切疑義を挟むつもりはない。しかし、一歩踏み込むと恐ろしい事に気づく。この歌は『君』が実在する必要はないのだ。そう、居もしないのだから気づく筈もないし、私がその人の名を知る由もない。それでも、この歌は成立するのである。

しばしば、英語の"you"は主語として"消える"事がある。例えば"you might mistake"なんて言えば「人間、誰しも間違える事くらいあるさ」くらいのニュアンスになる。一般論や誰にでもよくあてはまる命題を語るとき主語は"you"が選ばれる。日本語にする場合は「誰か」とか「誰しも」になる。

ヒカルはこの"you"の感覚を日本語の『君』に適応した。ここから先の話はどうやったって来週になってしまうので途中を全部すっ飛ばして答を書いてしまうと、だからこそ一つの歌の中で『君がいるなら同じ』と『君がいないなら同じ』が共存できるのである。実在しない対象に対して『いるなら』も『いないなら』もさほど違いはない。結局いないのだから。いるならそれは夢であり、いないならそれもまた夢なのだ。いる事が嘘になるだけで、いないと言い及ぶ事そのものに意味があるのだから。

この、『夢』と『君』が溶け合った状態について『宇多田ヒカルの言葉』で誰かが書いていてくれれば面白いのだが、それはちと踏み込み過ぎか。他力本願は程々に。そんな人は夢の中にしかいないのだから。