無意識日記々

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プロデューサーって保護者みたいだね

プロデューサーとは制作責任者だ。「分離派の夏」の作詞作曲編曲の殆どはなりくんの作り出したものだが「それでいい」という判断を下したのはプロデューサー、宇多田ヒカルその人である。このクォリティーでOKだ、ひとつの作品として私がいますぐ直したいと思う箇所はない、そう宣言しているに等しい。

デビューアルバムだ。拙い部分もあるだろう。しかし、それも含めて表現として意義のあるものしか作品には録音されていない。プロデューサーは、何か新しい素材を生み出す必要はないが、明らかにダメなものは排除できる権限をもっているし、また、その権限は行使しなければならない。したがって、「分離派の夏」に何かネガティブな瞬間が残っていれば、それはヒカルに文句を言うべきだし、何かポジティブな瞬間があれば、それは作り出したなりくんを賞賛するべきだ。プロデューサーとは割に合わない仕事なのである。その分ギャラはいちばん高い筈だけども。

つまり、気をつけて欲しい、「分離派の夏」のどこかが退屈だと誰かが言った時、いちばん傷つくのはヒカルなのだという事を。なりくんは「あら、あなたには合わなかったですか」と言っておけばいい。しかし、ヒカルは作った本人ではないので、最初のリスナーとしてニュートラルな立場で作品を判断できたし、したのだ。「分離派の夏」への批判はそのままヒカルの判断への批判である。

なので/だが/だからこそ、あたしゃ遠慮なく「分離派の夏」に文句を言うつもりだ。ダメならダメなのだ。それだけの事である。ヒカルはプロデューサーとしてもう15年前後そういった批判の数々に耐えてきた。従って今更である。今更じゃないのは我々の方だ。ヒカルの作品については表立って何かを言うのを控えていた人が、なりくんの作品には文句をつける、というのはありそうな事である。私としては、普段からヒカルの作った作品に対してそうしてあげて欲しいのだが、まぁ無理か。

ただ、ちょっと違うのは、なりくんがネット民を敵に回す可能性だ。皆さんご存知のように日本語民の人たちは空気に敏感だ。自分の判断ではなく、「この人は叩いていいんだ」という空気が出来上がっている人を叩く。集中砲火と炎上である。自分の判断ではないから歯止めがきかないし限界もない。

幸い、ヒカルはネット民に愛されているので、あんまり叩かれない。ここまで好意的にみられている人も珍しい。が、なりくんはまだそんなに有名ではないので、空気は出来上がっていない。どこかで様子観の集合体が平衡から離れてどちらかに落ちる。それまでになりくんは好感度を上げておかねばならないが、見るからに彼はそんなのに興味はなさそうだ。もしかしたら、叩かれる流れになるかもしれない。

そして、彼の事が気に入らないついでに「分離派の夏」も叩かれるかもしれない。クリエイターとしては「あいつの事は大嫌いだがあいつの作った作品は素晴らしい」と言われるのが最高の褒め言葉。しかしそこまで行く人は稀であって、ほぼ総ての例においてここでは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」が金科玉条である。

なりくんが嫌われるなら嫌われればいい、ヒカルは違うから、と嘯いていられるかどうか。繰り返すが、プロデューサーは作品の責任者だ。こどもの不始末は親が尻拭いしなければならないのだから、叩かれるのを真正面から受け止めるのはヒカルだ。そうなるのは仕方ないかもしれないが、そうなるのを期待している人はここの読者には居ないだろう。居たとしたら寿命千歳とかだろう(余程暇なのだ)。であるからして、好き嫌いは別として共に「分離派の夏」の成功を願うのがいいだろう。