無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

はまる/きずつく/もてあそばれる

あと3週間でアルバムが発売される。既にフルトラックが5曲、スニペットが2曲公開されているから過度なプレッシャーはないけれど、「一曲ずつダウンロードして聴こうかなぁ」と毎度の怯みっぷり。私らしい。

実際、『DEER RIVER』を12曲通して聴くまでに半年近く掛かっていた気がする。どうだったかな…ちゃんと日記を書いておけばよかったか。内容があんまりにも濃密なので、続けて聴くにはキャパシティが足りなかったのだわ。確かに、あそこでワンランク上がった感じがするからね。

今はこう…一度に濃密さを全部受け止めるのはさっさと諦めて(笑)、取り敢えず聴いてみる事にしているから、通しで聴くのも何とかなるだろう。自分がいちばんたくさん通しで聴いてるアルバムは『This Is The One』なので、やっぱり薄味が好きなのだろう。

そういう意味では、20年経ってもなかなか宇多田ヒカルの歌を「ただ楽しむ」のは難しい。『初恋』などは、何度も聴いているうちに慣れてきて気楽に聴けるようになるだろう、とのほほんと構えていたのに、この曲ってば聴けば聴くほどさの輪郭を露わにしていくというか、聴く度により深く魂に傷痕を刻んでいくような、そんな存在感を感じている。日々この曲の、自分の中でのイメージが成長していて、どんどんと立体的に、濃い陰影を落とすようになっている。地下迷宮を一階ずつ攻略してより深く潜っていくとより強い敵とより貴重なアイテムに巡り会える、そんなような印象を受けている。(※なおこの比喩は今読んでる転スラの影響)

何なんだろうね、宇多田ヒカルの居る日常には誰よりも慣れていると自負していたんだが、こんな曲を発表されてしまうと、如何に自分が脆弱で物知らずだったかを痛感させられてしまう。まさに歌詞のまんまなのだが、別に歌詞に影響を受けているつもりはないんだがな。そう表現できる心境にいつのまにか追い立てられているような。言い方は難しいんだが、そもそもヒカルはこんな楽曲たちにちゃんと追いつけているのだろうか? 書いて歌ってはみたものの、いつものように翻弄される側なんじゃないのかな。そこを見極める為にも、ライブは重要なのである。まさに、どこまで歌を自分のものにしているかが問われるからだ。歌に翻弄される者は運命にも翻弄される。お母さんが心配していたように、悲しい歌を歌ってもヒカルの人生が悲しくならないようにと願わずにはいられない。