無意識日記々

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この五十年後とその五十年後は同じなの?

『あなたに出会えて 誰よりも幸せだったと 嫉妬されるべき人生だったと 言えるよ』─これだけならありふれた文章だ。この前に『今日が人生の最後の日でも 五十年後でも』があるから、『嫉妬されるべき人生』の歌詞は特異な響きを持つことになる。

特に、『五十年後でも』というのはかなり妙だ。『今日が人生最後の日でも』という一文が説得力を持つのは人間がかなり年老いてからだろう。十代の若者側がそこで人生最後の日を迎えてしまうとなるとかなりやるせない。

かといって、60歳70歳が五十年後を語るのもまた難しい。平成までの世の中では、少なくとも、110歳以上生きるのはかなりのレアケースだ。歌詞にするには不穏当。両方を同じ場面で語っているとするならばやはり20代30代あたりがギリギリ適当か。

一方で、この歌の歌詞には『今日が人生の最後の日でも』と同じ節のまま『今日が人生の最初の日だよ』と歌う箇所がある。これは親が生まれたばかりの赤子に話し掛けていると解釈するのがいちばん自然で、そうであれば『五十年後』というのは、前回見たとおり、「あっという間に過ぎる人の人生」のことを指すのだろうという推測はつく。ちゃんと序盤に『長いと思っていた人生 急に短い』とエクスキューズしているところが憎い。

他歌の出だしは『軽いお辞儀と自己紹介で』なので、お見合いでもしたか友人の紹介で巡り合ったか、兎に角大人が運命の人と出会う場面から始まっている。やはり、20代30代の若者だろう。

斯様に、『五十年後』という同じ言葉が少し違った意味で使われてそうなのがこの歌の歌詞の特徴だ。それがどういった効果を齎すのか? …いや、大した話にはならないのだけれど、こういう作詞が出来る事自体はやはり偉大だと思うので、次回はその先の話を続けてみることにしよう、かな? …例によってすぐ気が変わるからなぁこの男は。