無意識日記々

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極められると区別が消える話

先週末に漫才コンビアンタッチャブルの復活があったらしく。めでたい。

現代の漫才のツッコミのレシピを一通り取り揃えたのが山里亮太なら、もっと伝統的なツッコミの技術を極めた名人が柴田英嗣だ。当時はやすきよの再来とか言われてたが、YouTubeなどで見比べてみればわかる通り柴田の方が技量は上である。恐らく史上最高峰だろう。

彼の特徴はそのアスリート並のタイミングの取り方にある。まるでたった今初めてボケを聞いたような間合いで「驚ける」。その精度は凄まじい。ともすると熟達の漫才師はネタを練り込みすぎてツッコミが流れる(タイミングが早すぎる)癖がつきがちだが柴田には全くといっていいほどそれがない。故に観客は彼のリズムに容易に巻き込まれる。自分たちと同じタイミングで山崎弘也のボケに反応してくれるからだ。アンタッチャブルの漫才に爆発力があるのはその観客を巻き込む力が恐ろしく強い事にある。ネタ自体の面白さはこの際どうでもよい。

故に柴田英嗣のツッコミは、練ったネタに対するのとアドリブに対するのとで殆ど差がない。山崎弘也はネタの作り込みを極めた上でアドリブを盛り込んでくる(つまり彼は舞台上でも普段と変わらずネタを作り込み続けているのだ)タイプなので、もしネタとアドリブの間でツッコミのタイミングがズレるとすれば途端に漫才のリズムが悪くなるのだが、柴田はほぼ全くそれをさせない。改めて、恐ろしい技術である。彼に適う人はこの十数年現れていない。

で今回の復活劇はその柴田が全く知らされていないドッキリ企画、サプライズ企画だったのだが、そののたうち回った驚きようをみても筆者はそれが本当に素の驚きなのか区別がつかなかった。仕込みを疑っているのではない。それくらい柴田英嗣のツッコミ技術、「驚く」時の演技力は高いと言っているのだ。彼ほど極めると、ツッコミが原因でアドリブとネタの区別がつかなくなる領域に入り込む。12月8日に新ネタを披露してくれるそうなので、その技術が錆び付いていないかを確認してみたい。あたしはその時間寝てそうだけども。

極めるとネタとアドリブの区別がつかない──なんだか有名な「発達し過ぎた科学は魔法と区別がつかない」みたいなフレーズだが、音楽家にもそれは言える。卓抜した即興演奏家たちは、その場で作曲を始められてしまうから即興といえどもうそれはすでに練り込まれた楽曲になっていたりする。

メタ視点での音楽家にもそれは言える。最近お世話になりっぱなしの椎名林檎も、存在自体がネタである。という言い方は語弊があるか、つまり、椎名由美子が椎名林檎を演じて21年、今やそれが上手くなりすぎてどこまでが演技なのかよくわからない領域まで来ているのだ。「自分は裏方志向で舞台の上の椎名林檎は演じているだけ」とかそういった類いの発言も、最早「インタビューでそういう受け答えをするのが求められているからそう答えている」のかなと思わせる位だ。自分のように遠くから眺めている身としては殆ど区別がつかない。わからない。

ゆみちんはそれでいいとして、では、ひかるちんはどうなのかという話が勿論本題。

「素」。

で、本題終わり。──でもいいのだけど、それじゃ味気ないから次回で何か書きますかね。そろそろデビュー記念日だしな。