無意識日記々

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自問自答を生ませる独り言

宇多田ヒカルにいちばん似合わないものといえば演説である。鼓舞とかプロパガンダとかそういうやつな。だから最初ツバサが新しいあだ名が校長先生だと騒いでいたのは滑稽で可笑しかった。あたしはMCを聞いていなかったので最初なんの事かわからなかったのだ。

校長先生って人前で挨拶と説話をする時くらいしか接点がないからねー普通の生徒には。MCの内容は映像商品に収録されているのでそちらを参照のこと。まぁそれは置いといて。

鼓舞とかプロパガンダとか啓蒙とか、そういう他者に思想や行動の指針と励起を与える言動をヒカルは殆どしない。少なくともメインじゃない。そんな人が140字弱で呟いた一言が人々の心を大きく揺さぶる。身振り手振りもない。ああしろこうしろとも言わない。ただ自分の心境(とその変化)について独り言ちただけだ。それなのにな。

その“効果の程”には毎度驚かされる。そこには確かに、祈りや願いが込められているのだろう。ああしろこうしろと言われている訳ではないのに読み手の中に強烈な自問自答を引き起こす。ヒカルは「君はどう?」とすら言っていない。だが我々はいつの間にか自問自答に移行している。自分ならどうなのだろう、と。後悔と罪悪感についてどう捉えているのだろう、と。

この作用はあらゆる啓蒙を超えている。危険ですらある。ふと立ち止まって考えさせる。歩きスマホよりはいいか。

その力が歌に宿ったからここまで有名になったのだろうけれど、ただの呟きにすら丹精込めて作り上げた歌と同じくらいの力を込められるようになっているのだと思うと、ますます次の新曲を聴くのが怖くなる。それを凌ぐ程に楽しみだけど。

内容の話に移ろう。『手放してあげよう』という表現。ヒカルは拾ったものシリーズでもキャッチ&リリースを心掛けているとか言っていた気がするが、罪悪感は我が子のようなものだったのだろうか。何か「惜しむ気持ち」が滲み出ているようにも思える。「誰も悪くないってわかってても抱えてしまう罪悪感」とは結局、自分の都合で生み出してしまったものなのだろうか。『誰かの願いが叶うころ』で連呼された『わがまま』を思い出す。罪悪感との共依存というのは、自己完結型ストックホルム・シンドロームなのか。

……話がややこしくなった。回避と潜行をしながら辿ると言ったとはいえなかなかに芸がないな。結構困っている。自分語りでもした方が近づきやすいかもな。方法論を考えてみるです。「文學界」から入っていくのもよさそうだ。皆さんもう読まれました?