「文學界」の対談で又吉直樹は「僕は嫌な事をそういうふうに言う事で自分を保ってきた」と語っている。切実よねこれ。これに対しヒカルは『今おっしゃった事ってものをつくる原動力ですよね』と超どストレートの豪速球で答えている。非常に心地よい遣り取りだ。
お笑いも音楽も、何か辛いことや悲しいことがあった時にそれを「過去のものとする」事が出来る点において共通している。お笑いについては又吉の言う通り。音楽は笑いにはしないが、悲しみを違うものにする点では同じだ。
どれだけ悲しい理由が込められた歌であっても、聴き慣れてくるとそれは次第に「ただの娯楽」になっていく。例えば、バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」は平明かつ恐ろしく重厚な楽曲だが、大抵の人は聴いた瞬間に笑うだろう。どれだけ深い感情が込められていようと、それが音楽になれば最終的には楽しめるものになる。聴き慣れれば慣れる程ね。
故に、作品作りというのは悲しい出来事を抽象化し対象化し自己と切り離してそれ独自の存在とする事なのである。創作を通して人は後悔の色を塗り替えていける。自らに拘泥する感情を解き放てるのだ。
であるからして(←久々に言ったな)、『後悔はしっかり抱いて』というのは新しい創作を孕む未来を見据えた前向きなものである一方、『誰も悪くないってわかってても抱えてしまう罪悪感は手放してあげよう』の方は、何か直接創作活動と結び付く予感がしない。そもそも『誰も悪くない』という言い方な。『自分は悪くない』じゃないのな。或いは「(自分以外の)誰も」という括弧書きがつくのだろうか。ここが結構微妙なんだよね。そこのところをもうちょっと踏み込んで考えてみたいのさ。うむ、完全に歌詞の解読と同じペースになってるね……。