無意識日記々

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新しい勇気

何も起こっていないのに感情だけが先にある時、つまり、普通とは時間が逆転している時に人は何をするか。事を起こす。

罪悪感が、罪悪感だけが先にある時、人は罪を犯すのだろうか。自分の中にある罪の意識に見合うような事をするのだろうか。まさにそこを防ぐのが罪悪感であるという点において、この感情は表現活動に特異な位置を占める。

又吉直樹はやるせない感情を笑いに変える事で過去を消化し昇華させていくと語った。我々は彼の作る笑いの“ご相伴に与る”訳だ。僕らの日頃のストレスもそうやって笑い飛ばせる。

ヒカルが歌を歌うのも近いものがある。失恋の痛手を癒してくれるラブソングは枚挙に暇がないだろう。これも表現の力である。

最近、「純粋な感情」についてよく考える。大抵の感情には対象が先にあるものだ。怒る時は誰かに何かに対して怒るし、悲しむ時は何かがあったから或いは何かが無くなったり何かを失ったから悲しむ。何も無いのに突然楽しい気分になったりはしない。誰かに褒められたとか天気がいいからとか、先の因果に事柄が存在する。

それがなく、ただ先に感情が生まれるような事があるのだろうか? 仮にあるとしたら、純粋な愛情や純粋な憎悪は何をするか、ちょっと興味がある。今後も突き詰めていきたいテーマだが、なかなか実例にお目にかかれない。

でも、結構近いことはよくみる。タイムラインを眺めていても、不機嫌な人は運が悪いのではなく、ただ不機嫌になれる対象をいつのまにか見つけ出しているようにみえるのだ。自分の中のモヤモヤと呼応してくれる事柄は楽しいことばかりではない。例えばイライラは、ぶつけられる相手が居た方がいい。「町でこういう人を見かけた!イライラする!」という人は、実は先にイラついていて、その感情の受け皿となってくれるような人や事柄を無意識のうちに探し出しているのかもわからない。

そんな中でヒカルは『罪悪感は手放してあげよう』と言った。今までの事を浚えば「負の感情の表現を留めようとする感情」についての対処だ。何も起こっていないのに生まれた純粋な罪悪感とは、即ち表現に対する怯え、根源的な畏怖だったのではないだろうか。つまり、シンプルに、ヒカルは表現活動に対して今まで以上の「勇気」を見つけられたのかもしれない。それをまず発揮したのが件のツイートそのものだったのではないだろうか。つまり、これは直接実践だったのだ。その“新しい勇気”が我々に感動と感銘を与えた。もう一度読み返しておきましょうかね。

@utadahikaru : デビュー21周年記念日の今日、沢山のお祝いメッセージありがとうございました!生きてると後悔はつきものだけど、後悔と罪悪感を切り離して、いくつかの後悔は大事な思い出とともにしっかり抱いて、誰も悪くないってわかってても抱えてしまう罪悪感は手放してあげようと思えるようになった一年でした。

仮にもしヒカルが表現者として更に新しいステージに進んだとすれば、ワクワクする。そして何が凄いって、ヒカルは進化すればするほど我々の身近に来てくれるってこと。僕らの感情に対して更により深い理解を顕してくれるということ。だから何の心配も要らない。寒くなってきたから風邪引かないでね。