無意識日記々

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色即是空自由自在人自縄自縛に愛を見出す

折角精魂込めて栄養のバランスも考えて丁寧に献立を作った時にはどうにもこどもたちの反応は思わしくなく、一方で面倒だからとインスタントラーメンで済ませた時には頗るいい反応をされてやや複雑な気分になる─という体験をした事がある人も多いだろう。

これは恐らく音楽にも当て嵌る事で。色んな技巧を凝らして新境地を開拓した自信作への反応は芳しくなく、殆ど手癖で寝てても作れるような楽曲が大ヒット、なんてことは一流の作曲家ならきっとある。「あぁ、こんなのでよかったの?」みたいなね。只今まだまだ大ヒット中の「鬼滅の刃」だって一流の漫画家の中には「え、こんなんでいいの?」と思ってる人が居るに違いない。消費者のニーズってのは作り手の拘りからは遠く離れた所にある。それに気づけるか、そして、臆面もなく喜ばれる事に徹せれるか。一流の作曲家といえども、いや、一流の作曲家だからこその葛藤みたいなものがあるのだろう。消費者だけでなく同業者からの尊敬も集めたい人は尚更だ。

ヒカルさんの場合、なんだかどれにも当てはまらなくてな。というか、例えば『Time』は狙ってオールドファンにウケるサウンドを作ってきたのかと言われると、悩んでしまう。難しい事に、消費者は音楽の難しい事はわからなくても、作り手の「どうせこんなのがいいんでしょ?」みたいな態度にはやたら敏感なのだ。なぜだか鼻につく。どこがどう転んでそんなことを読み取れてるのかサッパリわからないが、経験則として、リスナーを侮ると売れないんだよねぇ。

作曲者も、自身をリスナーに徹すれば消費者のニーズに合った曲が書ける。今書きたい曲ではなく、今聴きたい曲を自分で書く。同じ料理でもひとに作って貰ったものの方が美味しいみたいな事はあるのだけれど、それでもやっぱり誰も作ってくれなかったら自分で作るしかなくて。自分の聴きたい音楽を自分で作れたらそれはそれで嬉しい。そして、作ってみたい料理と食べたい料理はまた別だったりするのでした。

ヒカルは、しかしながら、ここにも当て嵌らない。いつまで経っても「出来た曲は聴かない」といってきかないのだから。音楽職人宇多田ヒカル宇多田ヒカルの作品の消費者ではないのである。お菓子作りの名人が「私甘いもの食べないので」と言ってるようで、何だかいつまでも落ち着かない。そうやってもう20年以上過ごしてるんだけども。

「意図しない」事の尊さみたいなものは確かにある。あざとさと正反対の、無意識でそうなる領域が。ヒカルは、自分をそういう状態にもっていくのがうまいのかもしれない。そうして、あざとくならずに他者の期待に応える事が出来るのだ。自我を出したり引っ込めたりしながら歌は出来上がっていく。今でもヒカルのアルバムのジャケットは本人の顔面のどアップである。自意識無しでこんなことは出来まい。透明になるだけでも、欲望に塗れるだけでもなく、そのどちらにもいつでもスイッチ出来る。昔より更に進化してるかも。それでも「自由自在」とかと程遠いのは、そんだけ愛が深いんだろうねぇ。縛られたり囚われたり──未だにそう歌ってるもんね。