無意識日記々

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事の咎

罪悪感と言われても、自分は物事にそういうことを感じるタイプではないので距離があるんだよね。罪の意識? 何それ美味しいの?

そういう人間からしても、いやそういう人間だからこそ『誰も悪くないってわかってても抱えてしまう』というのは響く。誰も悪くないなら罪などどこにもない。それでも抱くのが罪悪感だろう。物事が先にあってそれに対して感じると言われても共感しづらいが、何もなくても最初からその感覚があるというのならそういうものとして受け容れられる。そしてそれは、日常生活を苛んでいくものだ。

非常に原初的な事象なのかもしれない。悪い事が起こった時に誰かを咎めないと収まらない。それは自然現象を神や精霊といった擬人化を通して理解する事に通じる。何かが起これば誰かの咎が要るのだ。

近現代は、自然を人格から切り離していくプロセスだった。因果関係を見極め対照実験を繰り返し進んできた。その中で罪の意識は人間社会を維持する方便としての側面を強めてきている。

故に内省的な罪悪感は後悔と強く結び付きがちだ。事の咎を今の世界ではなく過去に求める。もう変えられないからこそ咎は揺るぎない。

何かが起こったから罪悪感が芽生えたのではなく、まずその感覚が先にあって、それに当てはまる何かを探していた。となると、ただ手放すのは勇気が要る。『手放してあげようと思えるようになった』と言うからには、前までは思えなかったのだ。出来なかったのだ。

出来なかったことが出来るようになるのは前進である。何が足りなくて思えていなかったのか、何を得て思えるようになったのか。ひとつの取っ掛りが「後悔と罪悪感を切り離す事」だった、というのが今まずひとつの答えとしてあって。それまでこれを混同していたというか、別のものだと気がついていなかったということなのだろう。

ひとつひとつ言葉を見ていくと少しずつ冷静になれる。件のツイートも徐々にではあるが読み易くなってきた。もう暫くお付き合い願いたい。