無意識日記々

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「本丸」はベジタリアン

嗜好品が「観察」に最適なのは、単に私が嗜好品の不要な生活をしているからだ。大麻も煙草も不要、たった今から禁酒法が施行されても何も困らない。好物はお茶、そして水そのものなのでね。嗚呼、今日も水が美味い。

嗜好品の中でも、昨今の日本の場合、大麻は最初からNG(部分的に合法な国や地域も幾つか存在している)、煙草はかなり押し込まれている、一方でアルコールは飲酒運転厳罰化程度で、飲酒習慣自体はまだまだ揺るぎないようだ。私は個人的にはどちらに転んでもいいので「世の中の趨勢」(主に日本だけど。日本語の記事を主に読むので。)がどう転んでいくか、具に観察していく事にしよう。

こういう「観察」の個人的な本丸は、他にある。「ベジタリアン」だ。逆から言えば即ち、「肉食」がどこまで押し込まれるか、という観点。

流石に肉食は嗜好品云々のレベルではない、何百万年と受け継がれてきた遺伝子の営みなのでそうそう覆る事はないだろう。しかし、酒飲みやドラッグ中毒者だらけと思われているロック・ミュージシャンの中にすら、ベジタリアンヴィーガンが居るのだ。ハラワタぶちまけるとかさっきまで歌ってた人が「動物性食品は一切口にしません」とかどういう事だ、おい。

つまり、現時点でもベジタリアンは一定の勢力を保っている。インド人の3分の1はベジタリアンだという記述もある。数億人単位となると、流石に無視できまい。

個人的には、家訓を「あるもん食っとけ」に設定している位なので「この食材がない人生なんて考えられない」とは考えない。文字通りあるものだけ、手に入るものだけを食べるだけ、という主義なのでどこかでまかり間違えてこの日本が私の生きているうちにベジタリアン大国になっても何も困らない。よって観察に集中できる。チーズが食べられなくなるのだけはちょっと痛いけどねぇ。(←めっちゃチーズ好き) 実際、肉食抜きを試してみた事があるが体調に負の変化は見られなかった。正直「いつでもどうぞ」である。

この「観察」を動機づける論点のひとつに「ベジタリアン嫌い」の存在がある。ベジタリアンの話になると、わざわざ乗り込んできて声高にその害を訴える方々だ。どうみてもベジタリアンの皆さんの健康を本気で心配しているようには見えず、ただひたすらベジタリアンに対する嫌悪感を連ねる人たちを、インターネット黎明期から沢山見てきた。

彼らの言動は「ホモフォビア」の皆さんに近いようにみえている。ホモフォビアとは、同性愛者の皆さんを過剰に怖がり攻撃する人々だ。一般的には、自らが同性愛者になる可能性を感知するとそういう状態になる、という風に解釈されているが、それにならえば、私がたくさん見てきたベジタリアン嫌いの皆さんは、自らがベジタリアンになる可能性におののいている人々、ともいえる。

そこで少し見方を変えれば、彼らは結局、現時点で既に肉食に対して潜在的な嫌悪感や罪悪感を持っているのではないだろうか。彼らが何とかしてその嫌悪感や罪悪感を押し込めて社会生活を送っているのに、ベジタリアンの人たちはいけしゃあしゃあと「動物を殺してはいけません」と言う。そりゃあ確かに腹が立つし、肉食を続けている自分はそれとわかって罪を犯し続けている事になる。そりゃあ、「ベジタリアンは間違っている」と攻撃的になるのも致し方ないかな、と少々同情する。

同情、と言ってもそれは喫煙者に対して「最近タバコ吸いづらいですよねぇ」と同情するのとほぼ同じで、傍観者ならではの無責任な発言と感情である。当事者たちからすれば苛立つヤツだ。なので私は実際には同情してますなんて言いにいかないけれど、他人の葛藤を眺めている時点で我ながら相当悪趣味だなとは思う。

そういったベジタリアン嫌いの皆さんが沢山居れば居るほど、ベジタリアンが勢力を持っていく可能性は高くなる。その逆説的な状況は、端から見ている分には確かに面白い。これを面白がれるのは「いつ菜食主義になってもいいよ」と開き直れている人間だけなので、まぁきっとなかなか仲間は見つからないかもねぇ。

まぁその「本丸」が本格的に面白くなる状況は、自分が生きているうちは無さそうかな。実際に害のあるアルコールですら社会通念が常勝なのだから。いずれにせよ、無責任な傍観者として今後も色んな世の中の推移を観察していきたいと思ってますよ。