無意識日記々

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その人のイメージがある有名な状態

又吉対談の中で「これは今後踏まえておいた方がいいかな」と思ったのは作品素材の虚構と現実に対する態度である。古くはデビューアルバムの『First Love』の頃から「それは実体験なのか」というツッコミを鬱陶しく思っていたヒカルだが、21年経って漸く少し変化が出てきたのかなと。

自分も幼い頃そういう虚構に対する“世間の態度”に困惑していたから気持ちはわかる。テレビドラマの最後に「この物語はフィクションです」と出る意味がわからなかった。親に問い詰めて「世の中には区別がつかない人もいるのよ」と諭されて「ホンマかいな」と矛先を収めるようなこどもだった。後に朝ドラを観始めてヒロインたちが口々に「街を歩いていると役名で呼ばれて嬉しい」と言うのを聞いて「そんなおかしなことする人が世の中にはそれなりにいるんだな」と折れましたがな。

小説という「取り敢えず虚構であることが前提」の世界でも又吉は自分自身の事柄と関連付けられていくのだから、人前に顔を出してほぼほぼ本名で歌うシンガーソングライターがその歌詞を実体験と捉える人間がいる─それもかなり一定数以上居るというのはもう避けられない現実で。最近のヒカルはやっとそこらへんで遊び始められていたのだなと確認できたのはこの対談での一つの収穫だ。今後の作詞の中でどう活かされてくるか注視しておこう。

映像の世界ではフェイクドキュメンタリーの手法が細分化して確立されていたり、現実のニュースもテーマの取捨選択の恣意性が過度であったりと、現実と虚構の境界線を探るような試みがひとつひとつ前に進んではいる。「歌の世界」なんてものが今の日本にあるのかないのかはわからないが、離婚発表を控えるなど私生活を切り売りする事をよしとしないアティテュードのヒカルが書く歌詞が、このご時世で一体どのように受け止められていくのやら。情報が少ないと妄想が止まらへん気がするのだけれど、そこも計算に入れた上で作詞を……なんか面倒臭いな。あたしゃ虚構を楽しんでるだけで十分ですじゃ。幼い頃から変わらんね。