「音楽向きの性格・人間性」というのはもっと根本的・普遍的な所から始まっている。「そもそも人は何をするのか」という所からね。
音楽好きのいちばんの大前提は「好き」が原動力な事だ。音楽は基本、それが何かの役に立つという事は非常に少ない。「絶対音楽」という概念もあるくらいでね。余談だが「絶対音楽」のWikipediaをみると池辺晋一郎の「音楽の音楽による音楽の為の音楽」というキャッチフレーズが載っている。至言だねぇ。
「嗜好」である。人は必ずしもこれでは動かない。ひとつ例えば「優越」或いは「勝利」を最優先に動く人も居て、同じく役に立たないカテゴリーでもスポーツ競技なんかはこれにあたる。人より優れていること、打ち負かす事、栄光や賞賛といったものに惹かれる人間は勝ち負けのつく営みに携わる。彼らはその為には苦しみや痛み、自分の嫌な事にも率先して取り組む。
音楽と競技、どちらも程度問題ではある。音楽にもコンクールやコンテストがあって他者と競い合うこともあるし、競技にもフィギュアスケートや新体操のように勝負度外視で観賞対象になるものもある。人の営みに白黒をつけようとしても詮無い。しかし、大きな傾向というのはある。
音楽は、どれだけ有名だろうと技術に秀でていようと稼ぎまくっていようと、目の前の人を楽しませられなくてはそこで終わりだ。モーツァルトやビートルズを聴いても退屈だ、という人は世にごまんと居らっしゃる。いやそれが最大多数だろう。どれだけ大派閥でも全体からみれば結構少数派なのだ。
しかし、他にどんな人がいようが、自分が好きかどうかがまず選択の基準である。人と競うよりもっと内面的な物事が最大事なのだ。それが行動の選択を決めていく。
その嗜好の志向が創作に向かうとどうなるか。音楽の中でも歌の歌詞の題材には恋愛が圧倒的に多い。これは、もうただただシンプルに、携わる人間が「好き」という感情に衝き動かされるタイプだからだ。歌という行動自体が恐らく淘汰上求愛行動として機能してきた歴史ってのもあるかもしれないが、ひとまず、目の前にある音楽は「それが好きだから」という理由で創られ、「誰かが好きです」という感情が表現されている。音楽の主題のことを「モチーフ/動機」っていうくらいだからね。もっとも、日本の商業音楽は歌詞のテーマが恋愛に偏り過ぎなんじゃないかとは私も思うんですけども。これも余談。
宇多田ヒカルはその王道を行く。『First Love』というタイトルでデビューして最近作は『初恋』である。恋愛感情に対して真正面から取り組んでいる。ヒカルは誰かと競うことはしない。ただただ自らと向き合ってその愛の源泉を探り続けているだけだ。それに大きく気がついたのが2010年の『嵐の女神』で、母親に対する感情を漸く徐々に整理して受容して表現出来始めてきた所だった。その3年後にその源泉を喪って今、である。
これは確かに、音楽を続けるかどうかの瀬戸際になった筈だ。やっと見つけた音楽の源泉が無くなり、果たしてモチベーション/モチーフはどこにあるのかと。その挙句が今の活発な活動なのだから人生本当にわからないね。息子の存在が大きいのは明らかだが、今のヒカルの「好き」はどんな感じなのか、例えば年明けの「マツコの知らない世界」なんかで少しでも伺い知れれば嬉しいなっと。