無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

人と人の、時と時の距離、15年。

近い未来に胸をときめかせる前座に、過去を振り返っておこう。今日は2ndアルバム『Distance』の発売15周年記念日である。

然るに、2年前に『First Love』の15周年を大々的に祝ったのは些か“言い訳がましい”出来事だった事がよくわかる。全く、今日という日を誰も騒いでいないのだから。しかしそれに不満がある訳もない。不在の寂しさを埋めてくれた企画に感謝こそすれ、ね。“Calling You”とはまさにヒカルを呼ぶ皆の声だったかもしれず。だがジェフ・バックリーのバージョンはヒカルのそれを簡単に凌駕した。相変わらず私の好みではないが、頭(こうべ)を垂れる以外に扱いがわからない。つい先日発売されたアルバムに入っている。かのロバート・プラントが「彼は我々とは次元が違う」と言ったそうな。流石に言い過ぎだと思うが。自分の若い頃の歌唱を忘れてしまったのかな。

という風な話を、『Distance』についてはやらなくても構わなかったよ、とごちればそれは嘘になる。2年前同様、2ndアルバムのアウトテイクやデモ・ヴァージョンも聴いてみたかった。心からそう思うが、時機ではなかったという事だろう。素直に引き下がろう。第一、バグダッド・カフェのような“奥の手”が実際に存在しているとも限らないのだし。

然らば、『Distance』を聴き直してみる。古い。サウンドの話ではない。感情の問題意識が、恐らく今と異なる場所に在るからだ。つまり、同時に若い。古くて若い。今、瑞々しくなければこう言えまい。

即ち、一週間後に訪れる“たった今の”感情の問題に触れた時、この古くて若々しい感性はまた書き換えられる。過去への遡及こそが物語の創造である。でなくば未来は無い。

それが普遍的なものなのか時代的なものなのかは永遠の問題である。この歌声が、1999~2001年だったからなのか16~18歳だったからなのかは、結局のところわからない。人生は一度きりだから。それでも、考えてみたくなる。

流石に売れ過ぎた為、時代すら作ってしまった、と言いたくなるこの特異性。16~18歳のヒカルの苦悩が1999~2001年という時代の苦悩として読み換えられていたとしたら、永遠の問題に答が見つかる。それは、時代を呑み込む程に肥大化した名前を背負いきった者にだけ与えられる特権である。

そこはそれ、今のヒカルとは、そうだな、随分と違う。33歳のヒカルの感情の問題が2016年の日本の悩みに置き換えられるかというと難しい。その代わり、人生の祝福を日曜日を除く毎日、半年間。届けてくれるという。役割が変わったのだ。大人になり、親になった。

33歳が何を共有して欲しいと願うかはわからない。私は多分、「意志の問題だ」と答えたいんだと思う。人生の相(phase)は、そういう風に出来ている。新しい『Distance』は、きっとまた次の機会に。5年後か10年後か15年後か、今はまだわからないけれど。若々しく、古臭くもあるこの名盤に、今宵は慎ましやかに乾杯といこう。