無意識日記々

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I WILL not tell.

流石に半月も経てばインスタライブのない日曜日に慣れてくるだろうと思っていたら、なんだろう、逆に余計に寂しくなってきているような。贅沢を覚えるとこれだから人間は。全くもう。

でも実際、顔を出して喋る時の情報量は凄い。お陰で年齢を重ねても人間性に揺るぎがない事を如実にわからせてもらった。最近では“変質”への不安は全くと言っていい程ない。寧ろこんなに変わらないままでいいのかと昔『傷つき易いままオトナになったっていいじゃないか』と歌った貴女を問い詰めたいくらい。その上、いちばん新しい曲では『永久に傷つきたい』ですって。『傷つき易い』から『傷つきたい』にまで強烈な進化を果たしている。状態の描写から意志の主張へと。宇多田ヒカルは昔ただただ「そういう人間」であって、そこから変わる気がなかっただけだったのだが、今やそれを受け容れて自分の意志で「そういう人間であろう」としている。willが強い。

ここで、いつも立ち止まって考える。歌の歌詞を、時折我々はヒカルの本音だと、マニフェストであると捉える。例えば『道』で『調子に乗ってた時期もあると思います』と歌った時などはなんだか素直に「へぇ、ヒカルさんてそんな風に思ってたんだ〜」なんて納得してしまった。でも、これは歌詞なんだから別にヒカルが本当にそう思ってる必要も必然性もないのだ。登場人物の話でしかないと解釈してもいいわけでな。

だが何故か、その“理屈”より、第一印象の方が信じられる気がする。だから『誰にも言わない』で歌われている事も、ただヒカルがそう思ってる事を口にしただけ、と感じる場面が何度もあって、きっと、それがいちばん確からしいのではないかという感触がある。

難しいのは、だからといってヒカルが「誰にも言わない関係」を実際に持っているとは限らない事だ。本音を伝えている節もあれば、歌詞だからと虚構を織り交ぜた節もある。それをまずは直観で振り分けていくのだけれど、当然その解釈が間違っている事もある。更にタチの悪いことに、今回の場合、本当に『誰にも言わない』のなら、我々は永久にその事を検証出来ない。言ったら嘘になるんだもの。言える筈が無い。もしそんなことがなかったとしても、何にも言わないわな。言うことがないんだから。結局どちらにせよ、我々は追究できない。

だから『I won't tell』は「わからない」なんだな、とうまく収まっているからますます腹が立つ。してやられた嬉しい笑顔をして、だけど。

芸術家の交友関係や恋愛関係というものは後世の研究家にとって極めて重要だ。多くの場合作品の動機、モチーフになっているのだから。ダ・ヴィンチモナ・リザは誰なのか、ベートーヴェンエリーゼは誰だったのか。皆が躍起になって研究してきた。それは偏に絵画「モナ・リザ」や楽曲「エリーゼのために」が素晴らしかったからだが、ならば我々にとって『誰にも言わない』もまた素晴らしいのだから、仮にこの歌のモチーフになった存在が居るのならば知りたいのだ。しかし、タイトルの通り、それは永久に叶わない。またも書くしかないのよね、『なぞなぞは解けないまま』なのだな、と…。