無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

『桜流し』の一番の歌唱について

この日記では5回とか6回とか書いてる事だけど、あたしのiTunes年間再生回数2012年2013年の第1位は『桜流し』、第2位は『桜流し(instrumental)』だった。インストも歌入りとほぼ同じだけ再生している事からもわかる通りこの楽曲の編曲は途轍も無く素晴らしい訳だが、勿論歌唱自体もとんでもなく素晴らしい。スタジオバージョンとして収められたものの中では、特に昔の発声のものの中では最高クラスに感動的なパフォーマンスなのではないか。発売当時「アーティスト活動休止中で声が出なくなってたらどうしよう…」と不安に駆られていたのが嘘みたいである。

本当に隙がないというか密度が濃いというか。歌い方ひとつひとつに意味があり細部まで考え抜かれて練り込まれまくった感がある。1年くらいかけてじっくり取り組んだ成果なのではないだろうか。

例えば『残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』の『残念そうに』はその念の残り具合を強調する為に他の節の同じ音程の部分に較べて低音を多めに歌い歌詞のイメージをしっかりと伝えていると見て取れる。また、ここでの『あなたは』での『あ』の歌い方の儚げなこと! このすぐあとの『あなた無しでは』の『あなた』の歌い方との対比も鮮やかだ。『見ていたあなた』の姿は思い出の中の蜃気楼のように霞んで、或いは涙で霞んでいるような、そんな情景をこの儚げな『あ』の歌い方で伝えている。

このあとの『Everybody finds love, everybody finds love, in the end... in the end.』も凄い。2つ目のfindsのエモーショナルな節回しの鮮烈さよ。更に一回目の『in the end』の『the』の歌い方が絶妙でな。ほんの僅かに弱めに歌うことで次の『end』の繊細さを引き立てている。勿論、溜めに溜めて最後に囁かれる『d』はほぼ“t”の音でここの余韻がまた堪らない。これを侘び寂びと呼ばずして何と呼ぼうか。最後の最後にほんの僅かな光を、愛を見出すその瞬間を、この溜めに溜めた『d』が表現している。そして2回目の『in the end』の『in』の歌い方の絶品さは子々孫々末代末裔まで語り継ぎたい。ここでの儚さと絶望と哀しみと希望の織り成す繊細な美は、宇多田ヒカルの歌唱力の何たるかを如実に、しかし奥ゆかしくも厳かに表している。ここでの『the』の発音が一回目のそれと微妙に異なる所にも注目だ。

嗚呼、1番の歌唱だけでも歴史に残る凄まじさ。2番以降についてもまたどこかで書くとしよう。宇多田ヒカルにここまでの歌を歌わせた「新世紀エヴァンゲリオン」の新作があと4ヶ月あまりで公開になるかと思うと身の毛もよだつ思いである。ここまでの大名曲に比肩する傑作が来るのだろうか。武者震いが止まらないぜ。