無意識日記々

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ピッコピコをひきずる

でその『誰にも言わない』のあまりにも普通じゃない曲構成。AメロBメロサビ/ヴァースブリッジコーラスの流れが当然だと思ってるとどこから手をつけたらいいかわからなくなる。

歌い方の一様性からもわかる通り、この曲はどのパートも等しく重要だ。元々ヒカルの曲は決めフレーズ以外にも印象的なラインを楽曲中に鏤めるのが特徴だったが、ここに至って最早決めフレーズのみで楽曲を構成したような。最高傑作と呼び声高いのも頷ける。

また、前々回述べたように、同じメロディでも楽曲の中で役割を変化させていくのが素晴らしい。ここを思い込みで聴いてしまうと流れを見失う。ピコピコサウンドがそれを助長していなくばいいのだけども。

実際、『Can you satisfy me?』という突き付けたセリフの強度みたいなものが、あのシュガーコーティングでややわかりづらくなっている。それは糖衣─オブラートとしての機能を持たせたのかもしれないが、インパクトを狙ってもよかった気がする。このあと『I just want your body』という自己主張〜身も蓋もない“結論”を導くのだから。

ここ、あたしとなりくんでは、恐らく「宇多田ヒカルのパブリック・チャンスイメージ」にズレがあるのかもしれない。彼は友人として(?)ヒカルの実際の姿を知っているので、その上で市場の商品である“宇多田ヒカル”をより客観的に見ようという作用がはたらいたのではないか。となると、市場における良心とか安全牌的な立ち位置を鑑みて、インパクトよりは少しPopで遊び心溢れた側面を出した方が宇多田ヒカルらしいと判断したのかもしれない。いや、あれがなりくんのサウンドだとしたら、の話ですがね。

こちらは、宇多田ヒカルというのは稀代のアーティスト、表現者であるから、人間の深奥を突く存在だと予め(無意識裏に)身構えている。実存性を左右する領域に一気に踏み込んできて魅了するのが真骨頂と思い込んでいるのだ。それはある程度真実なのだが、それがリスナーとしての期待を形成している。

その為、より本質に直接触れる表現を好む。もっと平たく言えば、Popでなくても構わないのだ。毎度指摘しているように、ヒカルは音楽リスナーとしては“Popファン”じゃない。それは『Kuma Power Hour』の選曲でも明らかだろう。仕事として、或いは生き方としてPop Musicに携わっている。熱狂的なファンはそこを入口としたとしても、ついていくからにはそこから先を知りたいと望んで臨んでいるのだ毎回。

そういう意味では、「ちゃんとマーケティングできていないなぁ」というのがこちらからの感想になるのだけど、逆説的な結論過ぎるかな。どちらが本当に市場を気にしているのかわかったものではない。まぁ、売れる売れないを言える市場がもうないようなものなので言っても仕方の無い事なのだけれど、誰に聴かせたくて音源をリリースするのかって本当に難しいね。