無意識日記々

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"やりとり"にも様々なレベルがある

日本でのヒカルは、リスナーに興味を持って貰う必要が無い。いや、興味を持って貰う為に何かをする必要がない、か。例えばフェスティバルに出演するとして、「今から宇多田ヒカルが歌います」とだけ言えば皆集まる。聴きに来てくれる。

フェスで無名なバンドは「まずは聴いて貰わないと話にならない」と頑張る。普通、「何?知らないバンドだな?」となったら聴衆はトイレタイムやビールタイムに向かう。最初っからその場を離れてしまう。それを繋ぎとめるのは並大抵ではない。

ヒカルは「こんばんは〜宇多田ヒカルです」と言うだけで済む。知名度って怖い。ホント怖い。

そんなヒカルが、いやUtaDAが「興味ないんだけど」というオーディエンスを前にギグをやったのがNYショウケースだ。もうそんな事態は一生無いかもしれない。貴重な経験だったろう。不思議な事に、そこでHikaruは「ライブのコツ」を掴む。人々の目線から外れた時間と空間にパフォーマンスの極意を見いだしたのだ。(ちょっと大袈裟)

更にそれが曲作りに影響を及ぼしたか否か。あるとすればそれはどんなものか。

まず、今のヒカルは久しくライブをしておらず、聴衆によるフィードバックのない状態で曲を作り続けている。元々曲作りとライブ活動が全く連動しないタイプで、ライブでの歌い易さとかオーディエンスとのコミュニケーションとかいった要素を考慮に入れる事なく一貫して"スタジオワークを極める"態度で曲を作ってきた。『Parody』がヒカルの楽曲の中でも異色なのは、ツアーのグルーヴが封じ込められているからだ。


『Fantome』は今までになく人力の演奏が幅を利かせたアルバムだし、『Forevermore』は今までの中でも最高にグルーヴが漲っている。これは、やや逆説的にみえる。全くライブ活動をしていない時期の人間が、今まででいちばんライブ向けの楽曲を書いているのだから。

これを単純に"渇望"が原因だとみるのは容易い。しかし、今のヒカルはいつも以上にライブをやりたがっているかというと疑問が残る。なぜなら、あクマでも私の目から見て、だが、今のヒカルがいつもより"ファンとのコミュニケーション"を欲しがっているようには思えないからだ。

ただ、この点に関して昨年ヒカルは興味深い事を呟いている(ツイートではなく、文字通りな)。「曲作りの過程でリスナーのフィードバックから影響を受けたのは初めてではないか」と。要は『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲に対するリスナーのリアクションが、当時目下絶賛制作中だった『Fantome』収録の他の楽曲たちに影響を与えた、と。

これまた考慮に入れねばならない事実である。或いは、私の観察が間違っているのか。もしかしたら今まででいちばんファンとのコミュニケーションを渇望している時期だったりするのかな。わからない。

まだまだ話を整理する必要がありそうだ。楽曲制作における作曲家同士のコミュニケーション、ライブパフォーマンスにおける共演者達とのコミュニケーション、ライブ会場でのファンとのコミュニケーション。「やりとり」にも様々なレベルがある。今のヒカルの心境を探る旅はまだまだ続く。