腋が美しいといえば『Forevermore』のコンテンポラリー・ダンスも素敵だったな。もうヒカルが踊るような事はないんだろうかな。本格的なものでなくとも、この時のように歌のメッセージ性を補強するような使い方ならまたやってみて欲しくもあり。
古来から「歌と踊り」という営みはヒトにとって欠かす事がなかったものだ。その意図は娯楽であったり求愛であったり儀式であったり様々で、ヒト以外の生物にも歌や踊りはみられる。生命の印といえる。
それでふと気がついたのだが、踊ることと歌うこと或いは楽器を演奏することって本質的には同じことなのだなと。何をもってそう思ったかというと、例えば打楽器奏者が鈴や太鼓を打ち鳴らす姿は「演奏」ではあるが、もしその時その演奏者が持ってるバチやスティック、そして叩く鈴や太鼓やシンバルやコンガやカウベルや何やかんやといった打楽器たちが総て透明だったらどう見えるだろう?と疑問を抱いたからだ。実際スケルトンのドラムセットとかあるけど、あれが枠も含めて全部透明になったとしたら……その演奏者の“振る舞い”は「踊り」そのものに見えるんじゃないかなと。楽器は透明で見えないけれど、打楽器の奏でる音は聞こえてくるとすれば、その演奏者は聞こえてくるビートにジャストフィットするダンスを踊るダンサーにみえるのではないかなぁ、ってね。ちょっと、いやかなり滑稽ではあるかもしれませんが、だとすると演奏と踊りの境目とか区別とか要らないんじゃね?ってね。
打楽器だと想像しやすいけれど、他の鍵盤楽器や弦楽器だって、腕や指を駆使した踊りだということも出来るんじゃないか。これが吹奏楽、つまりラッパや笛となってくると歌うことに近づいてくるが、そもそも歌うことや息を吐いたり吸ったりするのだって「運動」であることには変わりがない。ある人間の運動が何らかの表現になっているという意味ではそれは踊りと言えなくもないものであって、そこにあるものは共通しているのだ。歌と踊りって、ヒトが身体を動かした時に、それを見てもらうかそれを聴いてもらうかの違いに過ぎないんじゃないかなと。
ヒカルはシンガーソングライターとして、例えば歌って踊れる安室奈美恵なんかとは一線を画して、ひたすら歌うことに注力してキャリアを積んできた。そんな中で『Forevermore』では初めてといっていいほど振り付けの決まった踊りを披露した訳で、あれが単発になってしまうのは少々勿体無いかなというか。
踊りというのは言葉を介さずに直接「力強いなぁ」とか「美しいなぁ」とか「楽しそうだねぇ」とか「悲しそうだな」とか様々な表現を伝えることの出来る方法だが、一方で言葉を伝える時には余り力がない。メロディで表現を伝えた上歌詞で言葉まで伝えられる歌という有り様はホントに凄いなと思う反面、嗚呼、そういえば踊りに手話を取り入れたら面白いんじゃないかと昔から考えていた事を思い出した。多分どこかで誰かがずっと取り組んでいてくれてるだろうけど、取り敢えず今私は具体的に知らない。
前回のインスタライブでは視覚障害者の方々の話が議題に上ったが、一方で宇多田ヒカルファンという枠組みに於いては聴覚障害者の皆さんとはなかなか馴染みが無い。音楽を楽しむには聴覚が極めて重要だからだ。しかし、聴覚障害といっても様々な様態があるのであって、例えばコンサート会場に赴けば音は聞こえなくてもリズムの振動が身体に伝わってきて心地よい、と仰る方の話も聞いたことがあるし、、、そういえば昔酒井法子がドラマ「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」を手話を交えて歌って紅白歌合戦に出場していた事もあったな。音楽を楽しむのに聴覚は極めて重要だとはいえ、必須ではないのだ。届く人が居るなら、届くと素敵だ。ヒカルの歌なら尚更だ。
もしヒカルが歌を歌いながら、一方で手話を交えて踊ったりもしたら、今まで興味を持っていなかった人達にも新しく届くかもしれない。歌と踊りは基本的には同じものなのだから。伝わるのであれば、届くのであればチャレンジしてみるのも悪くない。くまちゃんが
『歩けないけど踊れるよ
しゃべれないけど歌えるよ』
と歌うのは、何か歌と踊りの特別さを真っ直ぐ伝えてくれているからなんだと思えてくる。まだまだヒカルの歌の可能性は拡がっていける筈なんだ。