無意識日記々

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言葉を踊る人として

幾度となく触れているが、『ぼくはくま』の

『歩けないけど踊れるよ

 しゃべれないけど歌えるよ』

という歌詞は本当に含蓄が深い。

そもそもヒトをヒトたらしめているのは「二足歩行/言語/道具」といった要素だとされているが、それらのうちの「二足歩行」と「言語」、その2つより以前に「踊り」と「歌」があったと看破するのがこの一節だ。

個体発生は系統発生を繰り返すとは言わないが、実際ヒトの赤子は立って歩いて喋るより前から音楽に合わせて身体を揺らし声を出す。確かに、歩けなくても踊っているし、しゃべれなくても歌っているのだ。実際の進化でもそうだったのかもしれないな。そんなヒト以前の、生命としてのプリミティビティを、歌と踊りは宿している。

宇多田ヒカルパフォーマーとしてはシンガーであってダンサーではないタイプではあるが、6年前には『Forevermore』のMVでコンテンポラリー・ダンスを披露した事もある。キャリアの中で、ちゃんと踊ってるんだよね。『Laughter in the Dark Tour 2018』では高瀬譜希子さんと手を取り合っていたし。なので、「踊り」の方に全く興味がない、という訳でもない。

ただ、その時のコンテンポラリー・ダンスというのは歌詞の内容をシグナリングする役割が強く、身体能力を活かしてキレのある動きをアピールする、とかの類の意図はあんまり無かった。あクマで「歌詞の補助」且つ「歌が主役」であって、言ってみれば「全身を使った手話」みたいなものだった、とそう私は解釈している。

そういう「踊り」にはあまり興味が持てない、やっぱり往年の安室ちゃんみたいなキレッキレのダンスが観たい、というのが世間(誰?)のニーズなのかもしれないが、ヒカルさんの場合はこういったコンテンポラリー・ダンスのような言語的身体表現の方がより有用であるように思われる。というのも、非日本語圏にも沢山リスナーとファンを抱えているからだ。

手話にも方言が存在し、世界共通という訳ではないことから、言葉の壁を越えて「身振り手振り」などでメッセージを送り届けるというのはかなり困難なことになるだろうことは容易に想像がつくものの、極々簡単なジェスチャー程度の仕草なら言語によらず通じるんじゃないかなぁ…

…とぼんやり思っていたのだけど、この間昔のテレビ出演の時の動画を観返していた際、『Letters』の『電話越しでも』の所で親指と小指を立てて耳元にあてる仕草をみて嗚呼なんてこの人は可愛いんだ…と思ったのもそうなんだけど、「あれ?これスマートフォンしか電話を知らない世代には“受話器を模す”ってそもそもわからないのでは? てのひらを軽く丸めて耳元に当てればいいんだから…」と気がついたらいやもうジェスチャーとか仕草とかダンスとか手話とか、そういうのも日々刻々と移り変わる世情を睨んでいかないといけないのか世知辛いなぁと溜息を吐く結果になってね。いやどうなんだこれ。

そんな懸念はあるものの、身体表現でメッセージを送るというのは、今のヒカルさんの引き締まったバディを活かす為にも(そのバディをがっつり高画質映像で残す為にも!)、今後も継続的に取り組んでいってもらいたいなと思うのでありましたとさ。キレッキレでない方で、シンガーソングライターらしいやり方で、ね。