無意識日記々

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「動くこと」と「待つこと」

ヒカルさん、最近ポッドキャストの話が時々出てくるなとは思ってたけど、なるほどね、「子育てとかで落ち着いて読書できる時間がなかった」からその分をポッドキャストに頼ってた感じだったのねぇ。ってインタビューで言ってたね。

そういやあたしも最近オーディブルみたいな「本を朗読してくれるサービス」いいなぁと思っていて、って話は前にしたか。そうなのよ、音声メディアにすると、マルチタスク…とまではいかなくても、他のことをしながら聞き流せるからいいのよね。合成音声の朗読アプリを使って「散歩しながら小説を聴く」なんてことが出来るのは確かに新鮮だし、軽い運動と物語の鑑賞のどちらも出来るってハイブリッドでそれだけで嬉しくなる。どうしても読書に夢中になると座りっぱなしか寝っ転がりっ放しになって身体が鈍るからな。

一方でヒカルは「私の仕事は待つこと」とも言っていて、創造的仕事で大事なのは「動かないこと」であったりもして、そこらへんのバランスが難しい。

前も書いたように、「表現活動」自体は「我々の運動の軌跡」である。なんであれ、何かを伝える為には、今なら私は右手親指を動かして画面をフリックし続けてるし、歌う人なら声帯を運動させて人々の聴覚を刺激するし、踊る人なら全身を運動させて人々の視覚を刺激する。絵を描く人は絵筆を手で動かしたり、ペンタブをこれまた両手で操作したりする。楽器の演奏なら両手両足を動かしたり肺を動かして口鼻から空気を出し入れしたりして音を出す。兎に角、人々の五感を刺激する為に何らかの運動を行って、その軌跡を我々は表現と呼んでいる。歌とか踊りとか絵とか演奏とかね。

しかし、そもそも「表現したい何か」がどこかに無ければ手足口を動かそうとは思わないのだ。先に何を表現したいかわからないまま活動や運動をするケースもあるがそれも「未来に表現の結果が存在する」のだと考えればわかりやすいか。そして、その為にヒカルは「待つ」ことが大事だと言っている。

個人差は大きいが、この「ただ待つ」は大人の方が苦手な傾向にある。こどもはぼーっと何もせずにずっと画面を見続けるとか得意なんだけども、大人は酒を飲みながらとか肴をつまみながらでないと間が保たないのよね。何らかの“運動”がそこにないと集中力が続かなくなってくる傾向にある。勿論その分、環境に働きかけられる能力は大きくなっているんだけど。

今のヒカルは筋トレに勤しんだりで「運動」というものの比重が増している。じっと座ってする「読書」の量も減っている。最近やっとこどもの手が離れて出来るようになったみたいだけど、あの様子だと聴き始めたポッドキャストは暫く聴き続けるだろう。その間に家事をするなりワークアウトをするなりといった「運動」が伴うだろうな。

一方でしっかりと「待つ」ことも出来ている。この両面をバランスよく持ち続けている限り仕事は続いていくだろう。大人のよさとこどものよさをどちらも持ち続けられてるとでも言いますか。

「表現されるべき何か」をじっと待ち続け、それを捕まえたらしっかりと手足口を動かしてカタチにしていくことができる。老いたらどちらも衰えるものだと思うけど、宇多田ヒカル(40)、まだまだ全然大丈夫そうだわね。どころかまだまだ成長発展途上中です。どーでもいいけどこうやっ括弧書きで年齢付与する表記、使ったら途端にワイドショーっぽくなるな…。

この流れだとまた『Forevermore』のようなダンス・パフォーマンスや、ギターやピアノといった楽器演奏など、身体を動かす表現方法を選択してくる機会も増えるかな。引き締まった筋肉をみるにつけ、そんな妄想を繰り広げるのでありましたとさ。…エロい目で見てるだけじゃないんだよ!(笑)