目まぐるしく移り変わるサウンドの流行とか複数のプロデューサーを起用した事による度を過ぎた多様性などを孕む3年以上の制作期間を経たアルバムが仮に出来上がるとして、ヒカルはその統一感の無さをどう捉えるかという話だったわね。
そもそも、ヒカル自身が「アルバム」という単位にそこまでこだわりがないように思われる。「将来、宇多田ヒカルの歌は総てアルバムで聴けるようになってて欲しい」という願望がヒカルにあるのは、裏を返せば、アルバムとは「曲集」に過ぎなくて、何らかの曲の集合体に曲集以上の意味を付与しないということだ。
例えばコンセプトアルバムを作るのであれば、コンセプトにそぐわない楽曲は収録しないのが通常だ。そういう楽曲が出来てしまったら、シングルのB面(カップリング/二曲目etc...)に収録するとか、次のアルバムまで持ち越すとかにする。ヒカルにはそれがない。一曲々々作って、それを全部入れてアルバムが完成するだけ。ならば、曲ごとの個性がバラバラであっても構わない。先週書いたように、ヒカルのあの歌声で歌ってしまえばその点に関しては統一感が出来るのだから。せいぜい、リマスタリングし直して、並べて聴いた時に音量に無駄な起伏がないようにする程度だろう。
ただ、それで他のプロデューサー陣がどう思うか、だ。制作と録音が終わったヒカルは曲順会議を他のプロデューサーに任せていた事もあった。具体的には三宅彰プロデューサーと宇多田照實プロデューサーの二人だ。ここに沖田英宣ディレクターが加わって合議制で決まる……というのは私の勝手な想像に過ぎないが、恐らくそうなってたんじゃないかなと。
で。今回からはここに小袋成彬プロデューサーが加わるかどうか、という点が気に掛る。各楽曲のプロデューサーを共同で担ってきた彼なのだからアルバム全体のプロデューサーとしても名を連ねてきそうな雰囲気だ。それが今迄の流れからすれば自然かと思う。
それで彼のソロアルバムを思い出してみると、非常に曲順が練られていた事がよくわかる。曲間の繋ぎやらコードの遷移やら、アルバム一枚を聴かせようという意図がかなり強い。その彼のコンセプチュアルなアプローチが宇多田ヒカルのアルバムでも発揮されたりするのだろうか?
となるとそこからの問題は、アルバム全体の統一感の為に、リマスタリングのみならずリミックスやリレコーディング、更にはリプロダクションといった、「一旦解体して作り直す」作業を挟んでくるかどうかという所になってくる。私も前から『Face My Fears』はリミックスするのもひとつの手だと言い続けているので、そういうアプローチをとってこられる事自体は吝かでは無い。
だがヒカルは首を縦に振らないんじゃないか。アルバムは単なる曲集だという意識は変わってないように思われる。もっと言えば多様性の増強こそが成長の証とすら言い始めてきそうでな。さてさて、どうしてくるかなぁ。今のところは妄想しとくしかないのでした。
付け加えておくと、ヒカルが曲順会議に参加しなかったのは『HEART STATION』で、『テイク5』と『ぼくはくま』の繋ぎもヒカルのアイデアではなかった─筈なんだけどソースが思い出せないから不安だぜ。
だが、『Fantôme』と『初恋』に関してはヒカルも曲順を一緒に決めていたような感触がある。これもそうだとヒカルがどこかで断言した訳じゃないけどな。『嫉妬されるべき人生』はアルバム最後でしか有り得なかった、なんてことも言っていた気がするので、自然に決まっていったような側面もあるのかもしれない。
何れにせよ、制作期間の長くなったアルバムの運命ってなかなかにややこしい。お金のあった80年代には一枚作って気に入らなくて最初からやり直すなんて例もあったとかなかったとか。今のご時世ではそういうことはないだろうしヒカルはそこから最も遠いアーティストだが、はてさて曲が揃って初めて通して聴いてみた時にどう思うのか。これは本当に、その時になってみないとわかんないわ。