無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

過去最高に豊穣で、過去最高に統一された一枚。

全く配信ライブに間に合わなかった。なのでかえって開き直れるね。ラジオ→配信アーカイブの順に味わいますわ。

さて通常更新。

アルバム『BADモード』の何がとんでもなく恐ろしいって、過去最高にバラエティに富んだ曲調と曲展開とを取り揃えたというのに過去最高にアルバムとしての統一感が強い事だ。そんな事があり得るのか? あるのだ。このアルバムだ。

何故こんなにも統一感が強いのか。ひとつひとつの楽曲は、サウンドもコンセプトも何もかも個性が非常に強く「お互い相容れない」のではとすら思えるほどだ。これが、続けて聴いていくと驚くほどに次々と繋がっていく。

特に最初聴いて吃驚したのは2曲目の『君に夢中』が始まった瞬間だった。君、この間まで完全に「私、テレビドラマ「最愛」の主題歌ですが何か?」って顔してたよね? 「えぇ、余りに完璧なシンクロ具合だったんで世間では最早ニコイチ扱いでした」とか言ってたよね? そんな3ヶ月掛けてしかと刻み込まれたイメージ、そうそう消えないよね?

ところが彼女は、タイトルトラックにしてオープニング曲である『BADモード』が終わった瞬間、次に鳴り響いた途端に「私、アルバム『BADモード』の2曲目ですわよ?」という顔に豹変していたのだ。ほんまなんなん。

確かに、どの曲もアルバム用にリマスタリングされていて音のヴォリュームや音場は統一されている。しかし、こうまで一瞬にして楽曲の立ち位置を変えられるのだろうか? その後も『One Last Kiss』は「『BADモード』の3曲目ですが何か」って顔してるし、『PINK BLOOD』も「4曲目ですが何か」って顔してやがる。以下ずっと同じ。

もともとヒカルは、3年掛けて一枚のアルバムの中でこのような構成にしようと計画して各楽曲をアレンジしてきていたのかもしれない──という有り得ない発想が一瞬頭を過ぎる程にどの曲も流れの中でしっくりハマっていて、始終幻惑されるような73分間になっていた。だが、幾ら何でもそれはない。一体これはどういうことなのだろうか?

思うに、最近のヒカルは、特に「曲の始まり方と終わり方」にとんでもなく気を配っているのではないだろうか。つやちゃんさんインタビューでもここの点は強調していた。「何故歌は生まれて、何故始まり、そして何故いつかは終わるのか?」という点について徹底的に突き詰めていった結果、各楽曲がまるでひとつの生命のようなリアリティが宿るようになった。その為、ある曲が終わって次の曲が始まるときに、命を受け渡すような感覚が生まれるようになったのではなかろうか。命を受け渡す、というのは捕食でもいいし生んで育ててもいい、兎に角、歌が始まって終わることの徹底的な批判的思考の結実がこの『BADモード』アルバムなのではないだろうか。

ヒカルは常々、「ひとつの終わりはまたひとつの始まり」とか、或いは「ひとつ始まったらひとつ終わる」とか、そういった世界観を表明してきていた。小6の時に作った『ゆきだるま いっしょにつくろう 溶けるけど』なんかはいい例だ。或いは、『一寸先は闇でも二寸先は明るい未来』とかでもいい。始まりと終わりが輪廻のように繋がっていくのが「宇多田ヒカルの世界」なのである。アルバム『BADモード』は、いよいよその世界観を音楽に結実させ始められた一枚となったのではないだろうか。ほんと、凄まじいアルバムだわ。

それもこれも、タイトルトラックにしてオープニング・ナンバーである『BADモード』の曲構成の賜物なのだと思う。2:06からの、『祈るしかないか』から1分間続く間奏部分で瞬く間にヒカルの作り上げた宇宙に吸い込まれていくあの感覚が、そこから現れていく個性の強い楽曲群達を見事に繋ぎ合わせていく切っ掛けになっているように思える。あの感覚こそが、宇多田ヒカルの感覚なのだ。それを音楽に出来るだなんて、本当に、全く以て、この人はどこまでも恐るべしである。