無意識日記々

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ジ・エイリアンとヒューマンカインドと、私。

※ 今回はコールドプレイとドリーム・シアターそれぞれの最新作の楽曲の歌詞内容に触れますので未聴の方はご注意下さい。(と言っても、実際に気にする読書は一人いるかいないかという程度な気もしますが。ま一応ね。)

10月15日にリリースされたコールドプレイの最新作と22日リリースのドリーム・シアターの最新作、どちらも力作でにんまりが止まらない私。アルバムの発売順はご覧の通りだが先行配信曲としてドリーム・シアターの方が「ジ・エイリアン」という曲を先にリリースしていてね。この曲の構成が秀逸で、おどろおどろしい異星人(the alien)が攻めてくる話か何かと思わせておいて楽曲の最後に「他の星から見れば私の方がエイリアンだ」というコーラスでオチをつけてくれる。いやテーマとしては目新しい訳では無いけれど、サウンドとメロディの構成が秀逸で、これは古典になるだろうねぇ。

その曲に引き続いてコールドプレイの「ヒューマンカインド」という曲を聴いて、同じテーマを扱っていて私は笑ってしまった。「我々はただの人間(only human)だが、別の星では“人類”(humankind)だ。」という。ドリーム・シアターとおんなじやんけそれ、と。

この一致は、さして偶然ではないと思う。まずひとつは感染症禍下で国境が分断されたこと。国を跨ぐ事が大仰なイベントとなり、他の国からやってくる感染者は侵略者同然の扱いを受けるというこの状況。しかし、実はそれは、いつ自分の方が侵略者として他国の検疫に引っ掛かるかもわからないぞという気づきでもあった。地球という同じ星の上で国と国とが相対化された中で皆が思ったことを、エンターテインメントとして歌詞にしたらドリーム・シアターやコールドプレイのような曲が出来上がったのだろう。

もうひとつは、同じく感染症禍で、普段人に会う為に費やしていた時間を一人で過ごすようになった事があるのではないかなと。内省の時間が増え、自分自身との問答に意識が向く中で、果たして「私」という存在は宇宙の中でどういった位置を占めるのか?という問いが浮かんでくるのは、想像力逞しいアーティスト/ミュージシャンなら自然なことだったのじゃないかなと。

「私」というひとつの言葉には、大きく分けて異なるふたつの意味があって。ひとつは、その他の誰か、あなたや彼女や彼や誰やではない私。つまり、何年何月何日にどこで生まれて身長はこんなんで体重はこんなんで何語を喋り趣味は仕事は学歴は……気分は体調は病歴はこれこれこうで……という「プロフィール」の塊のことだ。他者、その他の存在のどれでもないと識別され切った「私」は、確かに宇宙で唯一無二である。

もうひとつの「私」は、宇宙の中心としての「私」だ。その「私」は、たった今まさにここから宇宙をみている、という「主体」/「観測者」としての「私」だ。この「私」はありふれている。少なくとも今地球上に70億人もの「私」がいてそれぞれの居場所から宇宙を感じている。観測している。

ドリーム・シアターやコールドプレイが歌詞の中で「他の星からみれば私たちの方が異星人」という気づきは、この後者の「主体としての私」が宇宙に於いて普遍的であるという視点から生まれている。「向こうから見ればこっちがエイリアン」という「向こうから見れば」の一言は、私は私でここから宇宙をみているけれど、あいつはあいつであそこから宇宙をみているわけで、だからこちらの私はあいつからみれば……というそういう“着眼点”から来ている。視点を、観測者の存在地点を仮想の中で移動している。この「私」は宇宙でもっとも存在を保証された存在だ。コギトエルゴスム。誰かがいないと、宇宙の存在自体が気づかれない。

さて、宇多田ヒカルが今年の7月1日に資生堂の新キャンペーン「POWER IS YOU」への参画を表明した時、美についてこのように語っていた。

『私にとって、 内面の美しさとは、 自分に正直でいる勇気を持つこと。

自信を持つということは、 自分を知り、 自分を信じること。』

宇多田ヒカル

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001956.000005794.html

ここでいう『自分を知り』というのは、今論じた意味で、自らを外から、ここではないところからの視点で眺める事が必要になるのではないかなと、私はドリーム・シアターやコールドプレイの曲を聴きながら考えていた。すると、ドリーム・シアターのアルバムのラストを飾るタイトル大曲の最後の最後の歌詞が、

"Self belief will build a life of legacy"

だったのだ。私なりに訳すなら「自分を信じることが人生にレガシーを築くだろう」とでもなるだろうか。冒頭の「ジ・エイリアン」で「他の星からみれば私の方がエイリアンなのだ」という気づきから始まって、作品の最後を「自分を信じること」で締め括る、というのが、如何にもな構成だなと。それでふとヒカルの「POWER IS YOU」のこの文章を想起したという訳だ。自分を知り、自分を信じる事が自信に繋がるのだと。更にそれが美に昇華される……というのは、なんといえばいいだろうか、このヒカルのコメントって、わかった気になればそれで済むのだが、いざロジックを追おうと思うと途轍も無く長い物語を語らなくてはならない気がしてな。自分を知り、自信を持ち、素直になり、勇気を持ち──さすればそなたは美しい、のか? 冷静に考えると、それは何故なの?説明出来る? とても難しいと思う。今回は長くなったのでここで切り上げるが、折を見てまたこのテーマには触れ直したい。でもきっと、『Find Love』のフルコーラスを聴ければ一発だと思うけどねっ!