一昨日『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』が各レビューにて絶賛される事に同意する旨を示したが、それはそれでいいとして、相対的にこのトラックに重きを置かれている状況は、どうにも「あんたら宇多田ヒカルのしてることを過小評価してないか?」という疑念が拭えない。
それだけサムのネームバリューが大きいということなんだろうか。私は彼のこれまでの業績については知らないけれども、「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」を聴く限り、これは、元々彼のリスナーだった人たちからすれば「彼が本気を出して取り組めばこれくらいのトラックは作ってくるだろう」という“予想の範疇内”の内容だったのではないかと推測する。確かに、彼におざなりでなく真正面から真剣に向き合わせるだけのデモを持ち込んだヒカルが凄い、という見方をしたくなるのもわかるが、宇多田ヒカルってのはそういう見られ方で満足できる人ではない。
ヒカルの凄いのは、そういった「予測可能な範囲」から常に逸脱する能力を持っていることだ。『One Last Kiss』でA.G.Cookがベースを入れ忘れることでエレクトロサウンドと生楽器のベース音の融合を達成したような、失敗を糧に元々の想定よりよい結果を出す事態について「よくあること」と笑って済ます、そういう人なのである。そう、『FINAL DISTANCE』以降、ヒカルはセレンディピティがあることを前提に作曲を続けてきているのだ。(セレンディピティという語句については知らない人はぐぐってね☆(手抜き))
裏を返せばそれは、Floating Pointsのような、豊富な音楽的知識と鋭敏な感覚で理詰め且つロジカルな曲作りを進めるスタイルとは距離があるからこそ彼のような人のインプットはヒカルにとって非常に有難い、という見方も出来るわけだ。だが、真にリスナーにインパクトを与えるのは、既に確立された手法の披瀝ではなく、作り手側でさえも驚くような作り方で得られた音楽である。
そういうヒカルのクリエイティビティからくる楽曲群達の中では「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」は寧ろ安全策ですらあろう。いや勿論、作ってる最中の2人は「なんてエキサイティングなコラボレーションなんだ!」と興奮していたかと思うが、このアルバムの創作の核としてのヒカルの営み以上にサムの仕事を持て囃すのはアルバム『BADモード』のレビューとしては些かバランスに欠ける。どちらを重視するか(ロジックがセレンディピティか)については好みがあって然るべきだが、そういった創作のバランスに対する視点を欠いては宇多田作品の真価には迫れまい。もう20年以上そういう曲作りなのだ。プロの音楽評論家の皆さんもそろそろ慣れてくれていいんじゃないかな。勝手な願望ですけれども。
単なるリスナーにとっては、そういう面倒な区別云々は置いておけばいいけれど、作品を通して感じ取られる感覚をどこかで言語化しておいて貰えると色々と有難いのもまた事実。なので私もこうやって、毎度プロに対しては厳しめな論調も厭わず記すのでありました。耳が痛かった人がいたら、ごめんなさい。んでもそれは、確信犯でっす!