無意識日記々

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目で見る作詞

先日のApple JpopNow Radioでヒカルは、日本語と英語の歌詞のバランスの話をしている最中に「表音文字/ひょうおんもじ」のことを「おんひょうもじ」と言っていた

。これが先週この日記で書いた「ヒカルの日本語に対するイメージについての更に別な側面」へのとっかかりとなる。

これは単なる言い間違いとは言い切れない。というのも、表音文字は音標文字とも呼ばれるからだ。ただ、この音標文字の読みは正確には「おん"ぴ"ょうもじ」と半濁点をつけるのが通常なので、「ひょうおんもじ」の言い間違いというセンもまた捨てきれない。

肝心なのは、ヒカルが恐らくこの言葉を「目で読む文字」として主に認識していたであろう事が推測できる点だ。もし表音文字について他者と語り合った事があるならば、ここはほぼ必ずツッコまれる。「音標文字」を「おんひょうもじ」と半濁点無しで読んでも間違いではないとは思うが、私がそこに居合わせたならすかさずそこで熟語について確認をするだろう。自分の知らない概念のことかもしれないしね。

ヒカルが「音を表す文字」という意味の言葉を話し言葉として話したり聞いたりした事がないのならばなんだかそれは皮肉なことに聞こえてしまいかねないが、これはヒカルの日本語習得過程と関係しているのだろうと思われる。ヒカルは、飛び級が含まれるのでややこしいが(しかもその具体的なタイミングがわからない)、日本でいう小学1年から5年までをニューヨークで過ごし、そのあと小学5年6年から日本で過ごした。その為、他の子達が小学6年間で学ぶ常用漢字約一千字をたった1年で学ぶ羽目になったのだ。

この驚異の詰め込みは独学で為されたのだろう。その過程で学友と漢字についてあれこれ語り合う機会というのが無かったのではないか。

つまり、ヒカルは日本語を「読み書き」で覚えている比重が非常に多いのではないかということだ。人との会話の中で文脈を読み取るより漫画や小説を読んで日本語を覚えた。その為、日本語で重視される会話での「イントネーション」などに対する捉え方が標準的なものからやや距離があるのかもしれない。

これが遠因となって、「な/なかいめのべ/るでじゅわきを」が生まれたような気がしているのだ。楽譜に音符を書いてから別のノートにメモした歌詞を視覚的に当て嵌めていくような感じで作詞をしている割合が人より多いのだと。実際の発音を勘案するより多く「目で見る作詞」をしてきたのが、日本語に対する宇多田ヒカルの独特なアプローチを生んだのではなかろうか。単なる仮説だが、一考の価値はあるかもしれない。