毎度新譜を出す度に「今までになく自分を出せた」と言ってきたヒカルさん。それを誰かに指摘されたのか今回は「自分の違った側面を表現できた」的なやや迂遠な言い方をしてきている。うむ、やりおる。
今回の『BADモード』アルバムでそこが最も先鋭化したのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』だった…という話は何度もしてきたし今後も幾度となく繰り返していくつもりだが、それをキャリア全体の中でどう位置づけるべきかというのが今回の話。
宇多田ヒカルが「自分を出した」最初期の作品は『光』だ。先週発売20周年を迎えた同曲。本名の漢字をそのままタイトルにしたのだから推して知るべし。その曲調は、そこまでヒカルのシングル曲の主流だったエモーショナルで歌謡曲的な歌メロと洋楽由来のサウンドの融合という路線(『Automatic/time will tell』から『Can You Keep A Secret?』までのシングル曲群ですね)からは一線を画していて、タイトルも御覧の通りそれまでの欧文主体から漢字一文字、シングル盤のブックレット掲載の歌詞も縦書きという異例尽くしのシングルだった。
なのにこれがそれまでのどの曲よりも「ヒカルらしい」と感じられたのは、その“らしさ”をどこに求めるかに違いがあったからだ。踏み込んで言えば、ここでファン層の色合いに推移が見られたのよ。
それまでは、藤圭子譲りの哀愁と陰のある歌声でマイナーコードの楽曲を切なく歌い上げることが宇多田ヒカルの“らしさ”であった。ところがそんな楽曲を引っ提げてテレビ出演するヒカルちゃん本人の方はこれがもうよく喋る明るく楽しい女の子でそのギャップが凄かった。TBSテレビの「うたばん」に出演した際に中居くんに「宇多田お前いつも楽しそうだな-」的なことを言われて呆れられる、そんなテンションが持ち味だった。
その、テレビに出てはしゃいでる方のテイストが曲調として色濃く出たのがこの『光』だった。その前の『traveling』にもその兆候は出ていたが、こちらは商品としての完成度が図抜けていた一方で『光』はもっとパーソナルな魅力に溢れていた。
ファン層の色合いに推移があったというのは、この曲を境にしてそれまで宇多田ヒカルの音楽性のファンというのが多かった印象から「人が好き」というファンが増えたという話。メッセを読んで、というケースが多かったけれどそのイメージにそぐう音楽性が『光』だったのだ。
ここらへんが一度目の分水嶺となっている。今までになく自分を出せたというひとつの結節点。しかし、ヒカルが今回言っているように「自分を出す」と言ってもどの側面をいつどう出すかというのはかなり多岐に渡る。このあとそれこそ20年にわたって、だからまだまだこの話は続きますわね。