無意識日記々

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そんな不思議な視野と視座

前回の話を更に押し進めると「ヒカルは、街中のカフェの様子やバーの客などと同様に、自分が女性にお札を払う動作まで“その日の風景”の一部として捉えている」という事実に行き着く。ここの論点が『気分じゃないの(Not In The Mood)』の核となる。

ヒカルはこう語っている。

『That was the only really directing interaction that I had with someone』

訳すとこう。

「(その日)私が実際に誰かと遣り取りをしたのは、その一度だけだった」

と。

ここのニュアンスをどう捉えるか。恐らくその日一日(2021年12月28日)ヒカルは純粋な傍観者として人々の行き交いと遣り取りを眺め続けていた。その日一日宇多田ヒカルは物語の登場人物ではなく観客とか聴衆とか視聴者とか読者のようなものだった。それが、クリアファイルを携えた彼女の登場でがらりと変わった。いわばそれは、銀幕やテレビの中からこちらの名前を呼ばれるようなものであり、ラジオで自分の送ったお便りが読まれ始めたようなものであり、読みかけの小説が実は自分に宛てた手紙だったと気づいた瞬間のようでもあった。瞬く間に自分の周りの空気が変わって見えたはずだ。そこから先、ヒカルは傍観者ではなく登場人物の一人として振る舞う。

ここまでを踏まえる。ここから先である。登場人物の一人になった時にそれを歌詞の上でどんな描写をするのか。「それはそれは可哀想に。どうかこれで今夜の夜露をしのいでくれたら。」とかいう風に感情や願望を吐露したのか。否。ただ財布を取り出してお札を渡して詩を読んだという、“事実の羅列”だけで済ませたのだ。それは、売れ残りのクリスマスツリー(12月28日だからね)を起こしたり指相撲をしたりタバコに火を点けたりといった、その日見てきた登場人物たちの所作に対する目線と変わらない描写だった。

ここが興味深いと思う。傍観者から登場人物に遷っても尚、ヒカルは更にそこで自分自身をも傍観したのだ。そこで主観的な感想や心情を語らなかった。寧ろ、そうやって傍観者として過ごした筈の今日というその日一日、私もまた実際は最初っからこの世界の登場人物であったのだと気がついたかのように。

この視点の独特さが、『気分じゃないの(Not In The Mood)』の、今迄の宇多田ヒカルUTADAにない世界観を生んでいるように思う。神の視点のようでいて人の視点であり、でもやっぱり結局神目線のような、そんな不思議な視野と視座。間違いなくヒカルはこの歌で新しい歌詞観を切り開いた。この作風がこの1曲に留まるかそれともここから更に世界が拡がるのか、今後生み出される歌への期待がますます止まらないですよ。