無意識日記々

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18年前とは全く異なる「アジア人として」のアティテュード

結論から書くと、ヒカルの言う「アジアン・アイデンティティ」は、今回に関して言えば、全部“外側”で起こった事なのだと推測する。

間接的な示唆となるが、NMEのインタビューでヒカルは、コーチェラのステージに立つことについてこんな風に言っている。

『みんながみんな"どう?興奮してる?"って訊いてくるもんだから、私もどんどん気分が盛り上がってきちゃってて(笑)。』

https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/818e21dd4f201d3ed3d2258333144f86

基本的には「でも、ステージでは何が起こるかわからない。一旦そういう期待とかは置いといて、ひとまずステージに立ってみてどうなるか見てみよう…」というのがヒカルの態度なのだが、この日ばかりは共演者の皆さんやら何やらがやたら興奮していて、ヒカルの方が「あぁ、これはきっとエキサイティングなことなんだ」と“推し量った”のが今回のステージだったのではなかろうか。

「アジアン・アイデンティティ」に関しても似たような事態だと考える。ヒカルとしては、コーチェラの舞台に立つことは、そこまで「アジアを背負うこと」だとは、当初思っていなかったのではないか。その為、ライブレポインタビューで答えている通り、

アジア系アメリカ人のみんなからこんなに沢山応援して貰えてただなんて知らなかった」

https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/b1a478fce99933c9106f7de6ce099029

という反応になった。観客席からも、舞台裏や舞台袖や舞台上からも、アジアのレジェンドのステージとしてみられているのを痛烈に感じて、「嗚呼、あたしって、そういう風にみられてたんだ、アジアン・ポップス、アジアン・R&B/ヒップホップの象徴的存在として。」と思い至ったのではなかろうか。

故に、ヒカルが自らの内面にアジア人としてのアイデンティティ的な側面を感じ取ったというよりは、「周りからアジア人として見られている」、しかも、「アジア系からそう見られている」というのを実地で体感した、というのがヒカルの新しい体験だったのではないかと思われる。

なので、相変わらずインター時代の経験に基づいて「もっとシンプルでいいのに」と願っている所に変わりは無いが、宇多田ヒカルという存在がいつのまにかアジア系のアイコンと化していた為、“周りのみんなの”アジア人としてのアイデンティティを形成する重要な要素に“私が”(宇多田ヒカルが)なっていた、という発見が今回の肝だったように思われる。どこまでも周りの人達の話なのだ。

それとは別に、そもそも、2004年のUTADAのデビュー時点でヒカルが(って書くと名義ややこしいなっ)「アジア人としての自分」についてかなり掘り下げていた事もまた真実だ。お馴染み『Easy Breezy』では『アイム・ジャパニージー』と歌ってるし、『The Workout』では「極東の人間がどうやるか教えてやるぜ」と息巻いてるし、『Let Me Give You My Love』では東側の人間と西側の人間で遺伝子を混ぜ合わせようかだなんて歌っている。18年前である。ある意味今グローバルで活躍するどのアジアンアーティスト達よりも先にこういうテーマに取り組んできていたのだ。

ただ、この時は、御覧の通り「西側世界で振る舞うアジア人、日本人として」という切り口だった。今回は、アメリカ在住のアジア系の人たちや、そもそもアジアを拠点にしているアジア人の皆さんから、アイデンティティの根幹のひとりとして奉り挙げられているというのが特徴だ。18年前とはまるで異なるアジアン・アイデンティティとの向き合い方になっている。その違いは、押さえておいた方がいいかもわからないですね。