無意識日記々

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VOGUEの話

このタイトルの付け方今週までだな。みづれぇ。

「愛と痛み」について知るにはひとつひとついくか。ヒカルは「愛」についてはこう語っている。

『愛ってなんなのかよくわからなかった。BADモードを作っている時期にもそれを考えていて、「そうか、私は対象に愛されてる感覚を与えたいんだ」と気づいたんです。』

わかりにくい。いや、このテーマについて考えたことのある人ならスッと入ってくるかもしれないが、何も知らない人にこの文章を見せて「わかれ」言うたかて「無茶な」と返されるのが関の山よな。

「愛とは何なのか」についてここでヒカルは「再帰的な定義」による理解をしている…と書いてもますますなんのことかわからないので全く別の喩えを試みよう。

「カレーライスとは何なのか?」と問われたときに、「じゃがいもとにんじんとタマネギとお肉に火を通して水で煮てカレールーを混ぜたものを炊いたご飯にかけたもの」みたいな説明をするのが、構成的な定義とか構造的な定義とか言われるヤツだ。説明したい対象が“何から出来上がってるか”という材料とその関係性で話をする。

一方、「日本の国民食といわれるほど人気が高くて専門店なども多い。食べると辛くて香りも豊か。」みたいに、その対象が外界に対して何をするか、という話をすることで言葉の定義を試みるのを操作的定義とか呼ぶ。

更にこれを、「“○○○○○○は、食べると辛くて香辛料の香りが強く、日本国中で大人気です”という文章で、○○○○○○に入る言葉はなんでしょう?」というクイズ形式で言葉を定義するのが再帰的な定義だ。つまり、定義の文章の中に定義されるべきご本人が登場してしまっているタイプ。これ、慣れないと循環論法と区別がつかないので本当に厄介。

なので、ヒカルの愛の定義をそのクイズ形式で書くと、

「相手に○されてると感じて貰いたいと私が思っている謎の感情○」

みたいなことになる。ややこしい上に何も言ってないみたいにしか思えないけど、これはつまり、自分自身とその愛する対象&愛される対象との関係性でその都度決まっていくものだから、それ以上の説明は要らない、どころかしてはならない、と主張しているのだ。

「愛」とは、人が幾ら「これは愛だ」と主張しても、相手がそう感じてなければ愛ではないのよ、と言っているのに大体等しい。「愛は押しつけられるものではない」ということなので、いやはやこれはなかなかに強い主張だったりするのだが、ヒカルのような言い方をするとふんわり着地できるのよね。わかりやすくはないけれど、頭のいい人が頭を使った時ならではの巧みな言葉の使い方だなと私は勝手に感心するのでありました。これも愛だねっ!(……え?)