無意識日記々

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ロンドンでもパリでもない中間地点で

前回の続きをサクッと書いておこう。ややこしくなる話は一旦飛ばすわん。

「ロンドンのぼく」と「パリの君」の2人が互いに会いたい時に、「フェアである」為にはどうすればいいか? 「パリの君」がぼくのいるロンドンに来るのがいいのか、「ロンドンのぼく」が君に会いにパリに行くのがいいのか。遠距離恋愛が長期間続いている、なんて前提があるんならその2つを繰り返したりもあるけれど、1回限りのことなら「フェアである」為にはどこか中間地点を探してそこに君もぼくも集まった方がいい。それが今回はマルセイユだった訳だ。

例えばこのお盆の時期に「実家に帰省」したご家庭はけっこういらっしゃるだろう。この場合はこどもの家族が親である老夫婦の許に出向くのが一般的だ。待ち構える方と、出向く方。この非対称は、老いた人達に遠出は難儀だというのもあるが、先祖を祀る「家」や「墓」がそっちにあるというのがいちばん大きい。帰省で会うのは家のためなのだ元々は。今はそんなの形骸化していて単にお互い久々に会うのが楽しみなだけだったりしますが、そうなってくると老夫婦の方が会いに来ても問題はない。(実際うちは今年そうだったし)

斯様に「家」を基準にすると誰がどこに出掛けるのいうのは非対称になりがちだが、『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』という歌では、ぼくと君がひとりの「個人」として対等な関係である所が何よりも大切だ。その関係性を表現するためにこの夏の合流地点に中間地点を選んでいるとも言えるのである。

勿論メインのテーマは「感染症禍下で人に会えなくなってたからそろそろ会いたいよね」なのだが、他に込められたテーマとしてこの「自立した個人同士の対等な関係性」というのもあるのだと思われる。別にコロナがテーマならロンドンからパリに会いに行くだけでもよかったんだから。

この、中間地点、2つの立場の間に中立する立場を持ち込む、というのはアルバム全体に通じている。

『BADモード』アルバムがヒカルにとって「初めてのバイリンガル・アルバム」になってた事を思い出そう。今までは「日本語アルバムを出すべきか、英語アルバムを出すべきか」という2択だった。パリに行く?ロンドンに来て貰う?という悩み方と同じ悩みをずっと抱えていたようなものだ。「いやそんなの両方の言語と等距離な感覚で作っちゃえばいいじゃん」と日本語と英語の中間地点を礎にして『BADモード』アルバムが完成した。その素晴らしさは語るまでもない。語るけど。

ヒカルのノンバイナリ宣言も同様だ。ヒカルは長年「私は女?それとも男?」という類の悩みを抱えていた。そこに「ノンバイナリ」という男と女の中間地点、どちらでもあり、どちらでもない居場所というのを見出して色々と吹っ切れた。

「男と女」という二項対立は、どうにも人をフェアから、平等から遠ざける。どちらかが有利優性でどちらかが不利劣性になりがちだ。これは、2つの点しかない場合は状況が安定しないからだ。これは前回幾何学的に見たとおり。

ここに3つ目の立場、ノンバイナリを加えると、それら3つの性が相対化され、男女間の二項対立というものも減退していく。男女問わず性差別からの脱却というのは、個々人の自立を重んじる価値観の為には不可避的なファクターになるだろう。

そこまで見越してヒカルが『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』の歌詞を書いた……かどうかは正直わからないが、根柢にある思想としてはそういうことになるのだと思われる。全く以て、この曲がカルティエの「トリニティ」─三位一体というコンセプトと同調したのは運命だったとしか思えないのよね。