いやもう実際は大したことないのに情報量に圧倒されてる気分。「今週テレビ出たよ。来週も出るよ。」ってだけなんだけどねぇ。不思議。人は喜ぶとキャパが狭くなるのか?
そして昨夜にはヒカルさんがインスタ投稿。うち捨てられたと思しき青いくまのぬいぐるみと、部屋に飾られた花束と。昨日は圭子さんの命日だったのだが日本時間ではもう翌日23日になっていて。寂しいというのとも違うのだが嗚呼追悼するにしても地球のサイズ感は大きいんだなと再確認せずにはいられなかった。圭子さんも生前は国際線に乗ってあちこちに飛んでいたようなので、こういう感覚で弔う方が妥当なのかもわかりませんが。
飾られた花束のもつ花言葉に関してはよく知ってる人に任せるとして。なんだろうな、手段といいタイミングといい、どこか「外向け」の感覚があるな。いやヒカルから届くアウトプットはそりゃ全部外向けなのはそうなのだけど、昔のメッセはたまに独り言の延長線上にあったりもして。代表的なのが『暇・・・曲作れよ!(笑)』とだけ記された1999年6月20日のメッセとか。それを我々に聴かせてどうすんねんという一言。こういうのがいいのよねぇ。Twitterって本来そういう一言を投稿する空間だった筈なのにどうしてこうなった。
昔はお母様の追悼となるととてもヒカルの、いやさ宇多田光さんの個人的な感情が非常に強く出ていたと思うが、今は、なんだ、いちファンとしてのアーティスト藤圭子の追悼とか、宇多田ヒカルが亡き母を想うか事に対する世間(毎度だが誰なんだそれは)の目線とか、なんだかそういうのも次第に含まれてきてるなというのも感じさせる今回のインスタの投稿。ささやかでもアピールすることに意味があるというか。
年月が経ち遺影を飾る事への心理的抵抗も薄れてきて、更に我が子のおばあちゃんへの反応などもみて、時計の針が進んでいる印象を持った。あたしが死者なら我が子が死んだ親をいつまでも想い続けるのはとても嬉しくある反面、生きてる間は生きてる者同士で大切にしあって欲しいと我が子に願いそうなのだが圭子さんがどう思うかは知らん。そもそも死ぬってのは……って余計なこと言いそうなので止めるけど。
『花束を君に』という代表曲をもつ宇多田ヒカルが母の命日に花を飾る事の与える印象は、母のことになると冷静さを失うヒカルであってもそこは予測され得ることで。もう既に写真一枚で雄弁過ぎるほどなんだが、あれだな、曲作ってるのかもしれへんなぁ。宇多田光モードと宇多田ヒカルモードが混在する中で日常が紡がれていく。1個前の青いくまのツイートの意味はよくわかんないんだけど、無意味だったら嬉しいなぁ。