無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

我が子という人にあやかる光の目

あと「SONGS OF TOKYO」で印象に残ってる言葉といえばこれかな~。

『童心に帰るというか、こどもの目を通して見るじゃないですか。すべてが新鮮だっていう人といると、自分もそこにちょっとあやかれるというか。』

何がって、我が子を「人」って呼んだこと。多分毎日マンツーマンで暮らしてていちばん密接な相手で、「私が世話しなきゃ死ぬ」相手で、そりゃもう特別でずっとか弱く常に庇護下に置いてきた我が子に対して、ドライとかクールとかいうのも違うんだろうが、単なる他者と見做す視点も備えてるんだなと。「耳に入るもの目に入るものあらゆる物事が新鮮」な人であるから自分は学べるのであって、それが我が子だからとか幼いからとか、関係ないのね。ひとりの人として、そういう人から学べるという事に焦点が置かれてる。

これは多分、我が子だろうが尊敬に値する事をすれば尊敬し、ダメなことをすればそれはダメだと素直に思うし(言えるかどうか、言うかどうかは別として)、なんていんだろうな、7歳くらいのこどもを既に確固たるいち個人として視る視点があるということ。勿論、拙い所は拙いし自分が教えなきゃいけないし、サポートしなきゃいけないし、守ってあげないといけない部分は多々あるにせよ、基本的なセンとしては、お互いにひとりの人間として接してるんだなぁと感じさせる「人」発言であった。

だって、『自分もあやかれる』ですよ。自分のこどもにあやかる人ってそうそういないでしょ。

動詞「あやかる」は漢字で「肖る」と書く。肖像画とか不肖とかの「肖」だわね。似せて象る、みたいな意味だが、「老いては子に従え」という諺もあるけれど、老いなくても子から学ぶことは学ぼうという、謙虚の向こう側みたいな姿勢がそこはかとなくよい。どうしても親の役割を担っていると、こどもに対してしっかりしなくちゃとかそういう義務感が勝ってついついその役割に殉じた振る舞いをしがちになると思うし、そういう心意気が人を親として成長させるのだからそれ自体はとてもよい頑張りなのだと思うが、こうやってふとした時に肩の力を抜いて知らないことは誰が相手でも学ぼうという姿勢は、親としての自信(と実績)と、生来からの自然体の為せる業なのかもとも。

でも結局、「知りたいから」に集約されるんですよね。他の欲求、見栄や沽券や面子を欲するより遥かに強く「知りたい」という欲を優先してるから、こどもが相手でも、我が子が相手でもそこから学んでやろうという気概が生まれてそうさせてるんだろうなと。謙虚の向こう側と書いたが、この人は単純にひたすら己の欲望に忠実なだけなんだなと。涼しい顔して自分の欲望を満たすために日々貪欲なのだなと、そう解釈する私でありましたとさ。