無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

『音楽に責任はありません。』

そしてタワレコのもう一文の方である。



―その中で、音楽はどのような役割を担っていると思いますか?

音楽に責任はありません。


そもそも前の質問でその「その中で」に対して「わかりません」と答えているのだからこちらの問答も成立しないんじゃあ…と思う間もなく一刀両断。やはり清々しい。何でもかんでも音楽のせいにするな。音楽は音楽だ。そこに何か役割を見いだせるのは見いだそうとするからだろう。それを止めてしまえば、音楽だけがただ残る。何かそこに果たす役割があるとしたら、それは貴方が託したのだから貴方が責任を取りなさい。音楽のせいにしないで。―とまぁこんなところだろうか、読んだ人の解釈は。

私が受けた印象はちと違っていてな。どうも、音楽を我が子のように見ているんじゃないかという気がしたのだ。「どの曲も我が子のようなもので、順位なんてつけられないよ」というセリフはアルバムをリリースした時に「どれがいちばんですか?」と訊かれて戸惑いながら逃げを打つ時の為のものだが、その用途は別にしてもそれが本音であると思う。どんな曲も作った人からしたら苦労して産み落としたものなのだから愛着が沸く。腹を痛めたまで言うと言い過ぎだが、身を切って心を歌に込める人は多かろう。そりゃ、まるで自分が生んだこどものように思えても不思議はないと思う。

その視座に立ってもう一度『音楽に責任はありません。』という一文を噛み締め直してみると、どこか悪さをした我が子をかばうような言い方だと感じられませぬか。「いえいえ、この子は悪くないんです、何かあったのだとしたらそれは親である私の責任です」と毅然と告げる母親のような、そんな風な。それが『音楽に責任はありません。』のニュアンスだとしたら。

確かに、時代の中で音楽が何か役割を果たす事があるかもしれない。が、結局はその責任は"生みの親たる人間"の方にしか無い訳で、音楽をどうするもこうするも、奏でるも黙るも総て人の自由。音楽は選べない。だから、自由をもつ人の方が責任をもつべきだ。そういう事ではないだろうか。

ヒカルもリアル我が子を生んで育てて間もなく3年。こどもに対する気持ちと自らの生み出した楽曲に対する気持ちの、同じところと違うところ。似たところとそうでもないところ。そういった比較もより容易になり、余計に素直に自分の気持ちを出せるようになっているのではないか。その中で、「やっぱり自分の生み出した音楽って自分のこどもみたいなのよね」と改めて言えるのであれば―タワレコのポスターのかっこよさが益々増すように思えませんですかね。まぁ私の勝手な解釈に過ぎないのですが。