無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

需要がとても少ない極一部の読者に向けての日記

Twitterでリプライしよと思った話をこちらで。長くなりそうなので(笑)。

前からヒカルさんの英語曲(や他の洋楽曲)に関して「歌詞がわからなくてもノリで楽しんじゃえ」と繰り返し書いているが、これ昔っから全く響かないのよね。特に私が書くと、「あんた翻訳もやってるし英語曲の詞についても沢山語ってはるやないですか」と言われて“別枠”扱いされてしまう。うむ、気持ちはよくわかる。普通は一人のアーティストについて800~1000時の文章(感想文だったり批評だったり論評だったり妄想だったり随筆だったり形態は様々ですが)を年間500本書き下ろしたりしない。確かにこれは特殊能力だわね。

だが、それはあクマで「書いてるとき」の話だ。執筆能力という点については確かに無意識日記さんは特に量の面においてずば抜けているだろう。これでも常時ネタのストックだらけなのだから呆れてモノも言えない。それはそうなんだけど、「聴いてる時」は、特に優れた人間ではない。英語の歌詞はおろか日本語の歌詞もまともに聴き取れないし、いつも真っ先に歌詞を書き起こしてくれる人たちの手腕に「ほへーそんなこと歌ってたんか」と感心してる方なのだ。

そもそも聴覚自体そんなに強くなく、いつだったか、過労が原因なのだろうか、暫く片耳が聞こえなかった時期があった。日記で言えば「モノラルで聴く宇多田もいいなぁ!」とか書いてる頃だ。性格的に、片耳しか聞こえなくなったら「モノラルネタを書くチャンスだ!」と思えたのでまぁそこは特異なのかもしれないが、みんながステレオで聞こえてる中で片耳で宇多田の話をしていても何ら支障はなかった。Appleアクセシビリティには随分お世話になりました。

流石に両耳が聞こえなくなったら年単位で凹むと思うけど、今のところその兆候はない。が、そのうちそうなってもおかしくないんだなぁという感じでは生きている。聞こえるって素晴らしい。宇多田ヒカルの歌が聴けるのだ! これ以上の幸福がそうそうあろうか。いや、ない。

ということで聴覚自体は弱いのだ私。音程もコードもわからないし、歌詞も聴き取れない。耳の解像度は低い方だと思う。だが、書く能力が人一倍ある為、人と同じことを感じていたとしても、それを文字にすることが出来る。あやふやな感覚も文章に落とすことが出来る。そして、「そこから先」があるよのね。その書いた文章を読むことで次のステップへの「推理」がはたらくようになっている。更なる違いはここから生まれる。例えば歌詞カードを見ながら「1番の歌詞と2番の歌詞のここが対になってるのか、だったら歌い方を変えている筈だ」と“仮説”を立てて改めてその部分を聴き直してみると「やっぱりそうなってた」「そんなでもなかった」という風な結論が得られる。つまり、聴いて気づくのではなく、自分で書いて色々気づいていくうちにあたりをつけて聴き直してそれに基づいてまた書いているのだ。そんな感じでこの無意識日記は出来ている。

つまり、違いが生まれるのは「最初に音楽を聴いてる時」ではない。その段階では私は他のリスナーと変わらない…どころかかなりテキトーで不誠実なリスナーであるとすら言える。だが、それについて書いた“後”からが違う。最初に違いがあるから書けるのではなく、書いたから違いが生まれていくのだ。最初の第一段階「それについて書く」の時点で生まれる違い自体は、結構小さい。「ヒカル、歌うめぇなぁ」「ここなんかぐっときた」程度のところが出発点なのは変わらない。ここからの展開能力を身につけているから数百万字単位で日記が続いていくのでした。

……あれ?今回の日記って需要あった?(笑) まぁいいか、書いちゃったし。そう、考える前に書き始めちゃうのよね。考えるのは、書いたものを読んだ後なので、ありました。多分、みんなが思ってるのと順番が逆なのですわ。