無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

無意識日記の書かれ方

あの歌の歌詞の話の続きも、あの歌の歌詞の話の続きも、あれもこれもしたいなぁ、どれからしようかなぁと色々と考えるのだけどそこは無意識日記、「その日の気分」が最優先なので幾ら書くネタが控えていてもその日その時に書く気になっていないと書かれない。我ながら難儀なもので。

だが不思議とそのやり方を続ける方が結局物事は書かれる。効率の悪さを量でカバーするとでも言えばいいのか、書き続けていたらいつかどこかで書かれるのである。継続性によって量を担保すれば、気分屋は計画屋よりも多い成果(と呼んで佳いのかはわからないが読んで面白かったと言ってくれる人が居る限り成果だわ)を得られる。

「書くこと」への抵抗を減らずのはとても大事だ。行動自体が億劫になると兎に角出力が減る。どれだけ優れたアイデアがあろうと出力されていなければ取り敢えずこの世には(まだ)無いことになる。質の高さに拘る余り出力を渋って鈍ると、そのうち億劫が圧勝して、そう、飽きるのだ。

こうやって日記を書くのが続いているのは、偏に質より書くこと自体を優先しているから。ここらへんは「プロではない」ことの強みで、金銭の授受があるわけでもないのだし、つまらない事を書いても悔いる必要はない。アクセス数は次第に減るかもしれないが、世界全体からすれば「読まない人」が99.99999985パーセントだったのが99.99999986パーセントに変わっただけなので、動揺するのは無理というもの。そもそも、一人一人の楽しみになる事はその他の人がどうというのは取り敢えず関係ないのだし。

そんななので内容はいつだって玉石混淆で、例えばこの今回のような何が言いたいのかよくわからない内容(笑)のものも平気で投稿する訳である。こんなの書いてる暇があったら他にも書けることいっぱいあったでしょというのはまさにその通りなのだが、これが100回1000回と続いていくとその「他にも書けること」が幾らか遅れて書かれていくのだ。量って凄い。悩みがどんと減る。

結局、日常の中でどの動作を取れるようにするのかまでが大事なのだ。歌うとか踊るとか投げるとか蹴るとか穿つとか掘るとか結ぶとか縫うとか人々の動作は数限りなく存在するけど、「何を縫うか」で迷う前にまず「縫う体勢」まで自分をもっていく事が大事だろう。針と糸とミシンを買ってその前に座る─そこを準備出来るかどうか、だ。

普通はそんな風には考えないよね。エプロンがほつれたから縫いたい、だから針と糸とミシンを引っ張り出してきて…とそんな風に考える。だけど、無意識日記はそんな風にして6000日だとか7000回だとか続いてきた訳ではない。取り敢えず自分を書く体勢にする。その後はその日その時の気分次第。そうやって続いてきたのだ。だから度々訊かれる「よく毎回書くことがあるよね」という指摘─特に、ヒカルさんが人間活動をしていた6年半の間も変わらず続いていたことについてはね─に対して答えるならば、「書くことは書いた後に見つかるから」という風に返すしかないのでした。

いやでも決定的なのは、そこに宇多田ヒカルが居ることだな。語ることが尽きない相手を見つけたのが、長く続いてきた最大の理由ですわね。結局はね。