無意識日記々

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愛し愛され幾星霜

ヒカルさんが歌う「愛する対象」は何人か居る。母、子、親友、そしてKuma Changといったところか。父への歌は…候補はあるが確定なのは無いんだっけか。兎に角その対象を捨象して普遍的なラブソングにするのがPop Musicianとしての主たる手腕だ。勿論捨象せずにくまくま言ったりお母さんに会いたいと直接言い放ったりもしてるけどね。

この捨象は結局、「ヒカルさんの愛する力/ポテンシャル」を引き出している。世界中から愛してるよヒカルと言われ続けて四半世紀だが、単に無邪気に愛されて喜んでいるというよりは、それに呼応するだけの「愛し力」を示し続けてきたとみるべきかなと。

歌詞で思い切った捨象を経る事で、多分だが特定のファンから愛される事への執着のようなものも消え失せているかなとも思う。もっと言えば、宇多田ヒカルは誰に愛されても構わない。誰かに愛されていればよい。そしてそれは必ず世界のどこかで実現しているだろう。あの魅力でそうでないことは有り得ない。

この構造がゆるさを生んでいる気がする。今までのファン、目の前のファンに気に入られようと汲々とする事が無い。ファンクラブを作らない、作らなくてもいいのはここの精神が強靭だからだ。ゆるく過ごしていても、自分らしくあれば何とかなるという楽観的な自信が根柢にはあるのだろう。「愛されないのではないか」という不安を持っている暇が人生に無くなってしまったとでも言えばいいのか。勿論、新曲を出す度にそれが全力であるが故の不安というのは必ずといっていいほど付随してくるだろうが、それを何度も潜り抜けてきて幾星霜、今まで出してきた結果に説得されざるを得ない境地に立たされている。あと何より息子から愛されてるよね。それを疑うのは無理でしょ。

最初の12年は、そこの「自信」を抉り出すプロセスだったとも言える。特に『Distance』の頃は自身のパブリック・イメージと内面に宿る自身の像とのギャップに葛藤していたように思える。それには、声も容姿もあったし(中毒でのイメチェンとかね)、周囲からの音楽的・人間性的な期待もあった。やがてそれは『DEEP RIVER』以降どんどんと焦点が定まっていく。

更に母の死という紆余曲折どころか深淵に沈められる出来事すら経て今に至るのだが、ここに来てやっと、そう、やっとですよ、「自らを愛する」ことがテーマとして明確に浮上してきてるのよ。溢れる「愛し力」を、20年以上掛かって漸く宇多田ヒカル自身に塗し始めた、そういう段階なのです。『PINK BLOOD』も『Find Love』もそういったテーマを歌ってるよね。

ここまで来ると、ヒカルさん、「宇多田ヒカルの愛し力」で「愛される」ことの強烈さを自ら感じ入る段階になるかと思うが、まだ歌詞にはそこまでのことは描かれていないわね。「自分大好き」とかそういうこともあったりするかもしれないけど、それ以上に「この人に愛されるって凄いことなんだな」という素直な実感に至って欲しい。それを通して、その鏡面に「世界中の様々な人から愛されまくってること」のイメージが映し出されていく筈だから。そうなってくると、今の心地好い距離感がますまく心地好いものに進化するだろう。人と人の間に距離以外の何かが生まれるかもしれない。宇多田ヒカルなら、それを見せてくれると信じてる。