週末はpixivでAI絵関連騒動が起こっていたらしく。AI絵制作側に自らの作品を学習される絵師の皆さんの警戒心が一挙に行動として現れた、といった感じだったようだ。うむ、まーそうなるよね。
Chat-GPTもそうだけど、ここからはAIに「どんな言葉をかけるか」が焦点になってくる。今はプロンプトとか呼ぶらしいが、絵を描いたり要約したりというスキルをAIに任せても結局は「最初の指示」を人間が言葉などで与える必要があり、そこのセンスによって作品性の取捨選択が起こっていくだろう。
その「言葉をかける能力」って、突き詰めると「作詩能力」なのよね。どんな詩を書けるか。どうしてもポエマーとかポエットというと夢見がちでリアリストの皆さんの嘲笑の的になりがちだったのだが、今後はその「夢を描く能力」が(少しずつではあるが)重宝されるようになっていくだろう。細かな絵を描く技術はAIに丸投げ出来るように(これまた少しずつ)なっていく、というもうなってきてるな。
なので、音楽は数学的構造との相性の良さからAIによる作曲が描画よりずっと容易なのでAI時代には人間の用が減ると解釈される傾向に常々あったのだが、ここで歌モノの「作詞能力」について鑑みてみれば、寧ろその価値がクローズアップされてくるんじゃないかという予想の立て方も出来るようになってくる。作詞と作詩はまた別であるにしても、大きな括りで見れば、ね。
宇多田ヒカルの作詞能力は、特に同業者から評価が高い。勿論一般リスナー(…誰?)に対しても評判はいい。前も述べたように「宇多田ヒカルの過去曲っぽい歌詞」はAIなら即座に生み出せるようになるだろうが、「宇多田ヒカルの新曲っぽい歌詞」は無理なのだ。ヒカルが新曲を出し続ける以上、AIは味方にはなるかもしれないが敵には成り得ない。そう予想する。
寧ろ、リスナーの側がやばい。AIの作る「宇多田ヒカルの『First Love』っぽい歌詞」とか「『Automatic』みたいな歌詞」に“満足”をし始めてしまうとこれが非常にマズイことになる。昔からしょこたんの言う(御成婚予定とお誕生日おめでとう)「貪欲」はAI時代のキーワードになっていく。進歩に倦いたらそこでAIに巻き込まれる。「つまんない」「なんか面白いことないかな」という「もっと」の精神が人の心に安寧をもたらす。みんな「AIに(仕事でも趣味でも)アイデンティティを奪われるんじゃないか」と不安だろうけど、「よりよいものを」という精神さえほのかに持っていられれば大丈夫なのだ。
藤圭子はインタビューなどで「自分から何かをやりたいと思ったことはない。あれやれこれやれと言われてそれをやってるだけ」と述べる一方で「やるとなったらよいものを」というスピリットは常に持ち続けていた。一見主体性が無いように見えていたがそれは対象を選ばずともどこでも主体性を発揮できる人だったからだ。それが後々諸刃の剣になっていくのだが。
寧ろ「やりたいことをやっている」と言う人が、どこかでその時点でのクォリティに“満足”してしまうと、それは(今後は)AIの餌食になっていくだろう。まぁ、その人が生きてる間は追いつけないかもしれないけどね。それは結構分からない。
宇多田ヒカルはその藤圭子のスピリットを確りと継承した上で、更に「もう音楽は無理かも」という心境に(藤圭子逝去時点で)一度は陥りながらも、「こどもが出来たから働かないと!」と決意した時に「音楽」を仕事として選んだ人だ。ここが1998年デビュー時とは異なる。藤圭子はそこから大人達に翻弄されていったようだが、2016年以降のヒカルはまるで違う。
2つの事は結局「人間の精神」の話だ。詩に宿る貪欲と、社会に対する立場の固定とその発信。どちらもAIには無い特質だ。現状の設計思想ではこれは原理的なものでどこまで行っても覆らない。汎用性AIという概念は実現しないだろう…人が貪欲を失わない限り、だけど。
「親子と人工知能」というのは、興味深いテーマだ。精魂込めて様々に「AIを調教する」ことと、「子を育てる」ことの本質的な違いは何なのか。これが恐らくヒカルの歌詞に影響を与えていく。セクシャル・マイノリティの可視化とAIの進化は、それぞれ、恋愛観と親子観をアップデートしていくだろう。前者についてはもうかなり浸透してきているが、後者についてはどうなるか。私がゆっくりと考えていきますよ。