無意識日記々

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『飾りにも 誰のものにもならない Gold』

Apple Musicのインタビューでみのさんに「オルゴールで聴いて名曲なのが最強」と巧く纏められていたのだが(有能だねぇ)、今のヒカルは音色や歌唱力やアレンジに依らない楽曲を作曲したいという思いが強いようだ。仮歌も最後まで極力入れない、と。そりゃそうだわね、宇多田ヒカルの歌唱力にかかればどんな曲だって素晴らしいものに聞こえてしまうものな。

この純粋楽曲志向は、Spotifyのインタビューで「総ては言語。音楽も言語。」と言い切っていた事と表裏一体である。有り体に言ってしまえば、今のヒカルにとって音楽は抽象概念なのだ。

音楽の物理的実体は空気の振動、或いは鼓膜の振動である。なので、音色や歌唱力や編曲といった物理的効果で良く聞こえた音楽は良い音楽だ。物理的な違いを生んで違って聞こえたものは、違う音楽であっ、それによって評価が変わるのは自然なことなのだ。(言い回しは気取ってるが当たり前のことを言ってるだけです。“現実に鳴ってるのが音楽”ってことね)

概念としての音楽というのは、極々大雑把に言えば「楽譜」のことである。楽譜は紙に書かれた記号(或いは画面の明滅)の羅列であり、その物理的実体は視覚的な価値であってそれは決して聴覚的な音楽ではない。しかし、それ故に、音楽に音色にも歌唱力にも編曲にも依らない価値がそこにあると告げることが出来る訳であって、そうなるとそれはもう「楽譜自体が美しい」としか言いようがない。それは確かに視覚的なパターンだが、いつかどこかで聴覚的な実体に変換される事を待っている、謂わば「想いの塊」即ち「概念」なのだと言える。ヒカルはここに価値を見出しているのだ。

故にヒカルは「音楽もまた言語。」と言い切る。言語には必ず記号的な価値が付与されており、故にほぼ常に概念の表現として機能する。ヒカルが今“見て”いるのは、音楽のそのような概念的な側面なのだ。

その傾向は目下の最新曲である『Gold ~また逢う日まで~』に如実に表れている。この楽曲は目まぐるしくころころと変わる曲調でリスナーを翻弄する謂わば「奇々怪々・変幻自在」な楽曲なのだが、ヒカルの言う通り、前半と後半で移調もなければ転調もない、更には実はテンポも大体一定という、概念的には「終始一貫した」「シンプルな」楽曲なのである。基本のメロディは大体最初の80秒で提示されていて、以降はその応用や変奏で構成されている。しかし、実際に奏でられる音の数々は色とりどりである為我々の抱く印象はもっと多彩なものとなるだろう。だが、この曲の楽譜を見ることが出来れば、全く真逆にそのシンプルな美しさに感嘆する事になるかと思われる。

私が最初に「ワンコーラスで満足した」「これで十分」などと言ったり、後に「愛のアンセムのようにピアノ一本でも聴いてみたい」と言っていたのはそこらへんを指している(指していた)。ヒカルは、概念としての楽曲の美しさに重点を置いて『Gold~』を作った。「楽譜の美しさ」(この言い方すら比喩に過ぎないのだけどね)こそが結果、仕事の成果なのだ。

そしていつものように、そこらへんのテーマはちゃんと歌詞に記されている。毎度ここらへんが凄いわよね。

『No, no, 飾りにも

 誰のものにもならない Gold』

アレンジ/編曲や音色といった、音楽の装飾的な部分─即ち『飾り』である部分─や、誰かの特定の声色や歌唱力に依存してしか輝きを放てない“自立していない”音楽なのではなく、そのもののみで、それ独自が黄金の輝きを放つ、それがこの楽曲『Gold ~また逢う日まで~』なのである、とそうここの歌詞は告げてくれている。この歌詞に込められた想いは、勿論大切な人へのメッセージとしても機能する訳だが、と同時に、ヒカルが愛して止まない音楽という概念に対してもまた機能しているのである。宇多田ヒカルの歌詞は、人のみならず音楽の概念にまで当て嵌める事が出来る普遍性を持っているのだ。いつだってね。