無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

「なる」と「する」①

昨夜は千葉の停電が心配過ぎて気疲れして寝落ちするというよくわからない夜だった。でもこれだけ眠ったのにまだまだ全然寝足りないぞ。歳取ったら朝目が覚めて困るんじゃなかったのか。嗚呼、どうせなら、死ぬまで眠っていたいのに。

最近数日ブログのアクセスが減っている。面白い事を書いたらアクセスが伸び、つまらなかったら悩むというのならアクセス数チェックもやり甲斐があるが、うちの場合ほぼ100%アクセス数は宇多田ヒカルへの注目度の関数だ。つまり、ヒカルが注目されれば伸びるし、関心が離れると下がる。私のことなど関係がないのだ。ある意味わかりやすい。

ということなので注目度の低い今週は自分の筆が暴走するに任せようかなと思う。何書いてもいいモードで。まぁいつもそうじゃんといわれればそれまでですが。

ちらっと触れたヒカルの作曲態度について考えてみる。ヒカルは音楽が自然に生まれてくるのに任せる場面と人工的に作り替える場面の両方を作曲プロセスに持つ。

自然に(spontaneously)生まれてくる、というのはそのままの意味だ。音楽家は楽器を自分で弾いたり楽譜を書いたりして能動的に音楽を生み出すんじゃないかと思われていそうだが、必ずしもそうでもない。「勝手に音楽が生まれてくる」状況が少なからずあるのだ。

究極例はウォルフガング・アマデウスモーツァルトで、彼はただ頭の中に勝手に流れてくる“既に完成された交響曲”をひたすら写譜するだけだったという。完成形で鳴っている交響曲を写譜するとかどんな記憶力なんだというのが先にあるものの、やはりこういうのは「音楽が勝手に生まれてきた」と言って差し支えないだろう。実際、年表を見るとモーツァルトにはとても人間業とは思えないスピードで交響曲を量産した時期があり、これギリギリで物理的に楽譜を書く時間のみしかなかったんじゃないかという感じだ。創作の葛藤とかに向き合ってる時間があったとは想えない程に。まぁ彼は究極にして至高だが、同じように、完成形ではなくとも、一部分が頭の中で勝手に鳴っていてそこから曲が生まれたなんて体験ならかなりあるのではないだろうか。

これに対して人工的に(artificially)音楽を作る人も居る。いや、世の中の大半はこれだろうか。意図的にある一定の音楽性を持つ楽曲を分析的構築適用に作り上げる方法で…ってこれ長くなるな。丸数字を使わざるを得ないなこりゃ(笑)。という訳でまた次回。