無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

行先不明の暴走トレイン、脱線して宇宙を飛び出す


(↑の訳:“調子に乗って書き過ぎちゃいました”)


※ 断言します。読まなくていいです。時間の無駄!(笑)

※ あ、ヒカルさん、万が一来てたら、貴女はちゃんと読んでね︎



CDTV LIVE LIVE」に出演したヒカルさん、テレビでも「量子力学とシミュレーション仮説」の話をしちゃいましたわねぇ…。何だか私、誘い出されてる気がしてきたので乗っかってはみるけれど、想定できる読者が宇多田ヒカル独りきりになるのでそれは重々御了承の程を…。



さて。前も述べた通り、リスナーの方はそういう何とか仮説とか何とか力学みたいな意味のわからない単語に惑わされる必要は無い。そういったキーワードに遭遇した時の感情の揺れはしっかりと歌の中で表現されている。例えば『ああ名高い学者によると僕らは幻らしいけど』なんかはその最たる例だろう。この部分を聴いた時に何らかの感情や感覚や感触が生まれていたのならもうそれ以上は特に必要がない。ヒカルの表現したかったのは詰まる所そこなのだから。


なのでここから先のこの日記は、「このフィーリングがどこから来たかを知りたい」という、ある意味余計な興味を抱いてしまった人々に贈ろう。ほぼ全員が途中で閉じると思うけれども。



さてさて。



今回も「量子力学とシミュレーション仮説」という風に、2つをセットでヒカルが言及したのは、この2つが「ヒカルが言いたいこと」においてひとつの対になっているからだ。量子力学の方は、「モノは、僕らがそのモノをみるまで存在するとはいえない」という客体(モノ/object)の実在性に関する話で、シミュレーション仮説の方は「僕らのココロは何らかの計算結果に過ぎないのではないか?」という主体(ココロ/subject)の実在性に対する話となっている。少し昔の言い方をするなら、前者は唯心論的、後者は唯物論的ともいえるか。


で、先ほど挙げた『僕らは幻らしいけど』の歌詞で歌われている…逆か。この歌詞を宇多田ヒカルに“歌わせた”のが、と言わなきゃいけないかな、それがシミュレーション仮説の方だろう。我々という存在は、我々よりもっと高次の生命体が愉悦に浸って写しているスクリーン上のカゲロウのようなものでしかないのかもしれない…という不安を煽る方ね。


では量子力学の方がヒカルに“歌わせた”一節はどれか。これは判断が難しい所だが恐らくそれはその直前の歌詞、


『朝日が昇るのは

 誰かと約束したから』


なのではないかなと思われる。この歌詞について前に触れた時「一見、主観的判断が世界の趨勢を決めるセカイ系的世界観を思わせる」という意味の事を書いたが、量子論観測問題について語られる時によく言われるのがこれだろう。「誰かとの約束」という人と人の心の中の出来事に基づいて、太陽という巨視的な天体の運動の行方が決まる。普通で考えれば有り得ないが、量子力学で問題になる微視的な局面では実際に起こり得る事柄だ。人間が勝手に決めた観測方法とタイミングとセッティングで観測する事で初めて粒子が局在する。その局在の仕方が人間の思惑に左右されまくる。これは二重スリット実験というヤツが鮮やかだからググって欲しいけどそれはまぁいいや。


ただ、テレビでヒカルが『何かが観測されるまで存在しない』と言っていたのは、少々紛らわしい。いや、ちゃんと博士号取ってる連中でもこんな言い方をしたりするので仕方がない事なのかもしれないけれど(ほんまお前らちゃんとせぇよ)、「何か」は常に必ず存在する。観測されようがされまいが。専門用語では規格化と呼ぶのだが、極端な言い方をすれば「何か(大抵の場合粒子と呼ばれる)が必ず存在すると仮定する事で量子力学は始まる」と言っても過言ではない。観測されるまで決まらないのはその粒子の位置や運動量、或いはエネルギーといった古典力学的物理量(量子力学では可観測量と呼ばれる)の具体的な値であって、その存在の有無や可否では決してない。その値の決まり方が「人間の観測の仕方の決め方」によって変化するのが量子力学であり、そして、そうでしかない。観測されるまでは確率振幅を与える波動関数として(ヒルベルト空間内の状態ベクトルとして或いはマトリックスとして)、間違いなく存在する(ここで「そこに存在する」という言い方はあんまり出来ない。観測するまではそこに在るかあそこに在るかどこに在るのかは決まっていないのだから)。粒子がこの世に存在する確率は100パーセントであり(先述の規格化)、間違っても「観測されるまで存在しない」ということではない。どちらにせよ理論の要請する仮定の話だよねといえばそれまでなのだけど、その仮定に基づいて自然と対話して話が成り立っているのでそれは真実だと少なくともこの21世紀までは言われてきてはいる。それが本当に宇宙の終わりを超えて未来永劫「事実」で有り続けるかは確かめようがない訳で、なるほど確かに


『確かめようのない事実しか真実とは呼ばない』


のだろうな。もっと言えば、人が宇宙のどこかに必ず粒子を見出せると“信じる”事で、量子力学は機能し始めるのだ。たとえその位置が確率的にしか予測できないとしても。



…ふう、もう読者はヒカル以外居ないだろうから(こらこら)、遠慮なくこのまま暴走を続けよう。行先不明の暴走トレイン2号車、脇目も振らず驀進中です。


で。


『何色でもない花』に於けるいちばん“強い”センテンスは


『自分を信じられなきゃ

 何も信じらんない』


なのだと私は思う。これは論理的には


「あなたが何かを信じているなら

 あなたは自分を信じている」


と同値だ。(対偶をとっただけなので) この世の、いやあの世も含めて森羅万象遍く総ての中で何かを信じているのなら、あなたは何よりも先にまず自分自身を信じているのだ、とね。


これ、日本語では意味を明確にする為に


「あなたが何かの存在を信じているのなら

 あなたは自分自身の存在を先ず信じている」


と書き換えた方がいいのかもしれないね。英語だと"believe"と“believe in"の違いだわ。


この書き換え、この歌に関しては必要な事だと思うのだ。というのも、歌詞の中で


『僕らはもうここにいない』

『僕らは幻らしい』

『存在しないに同義』


という風に、次々と「存在が不在か」を問うセンテンスが現れてくるからね。この歌は「存在を問う」歌なのです。


なので、この『自分を信じられなきゃ何も信じらんない』という一節は、


「自分の存在を信じられて初めてそこから

(自分の外に在る)世界の様々を信じられる」


という意味に捉え直す事が出来ると思われる。これはもう、かの有名なルネ・デカルト


「我思う、故に我在り」


という一節の派生になるよね。この言葉の意味は…Wikipedia丸写ししとくか。


「自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。」


短く言えば「疑う自分は疑えない」だね。「最も信じられるのは自分自身の存在」。やっぱり、


『自分を信じられなきゃ

 何も信じられない』


に戻ってくる。



という感じで、この「我思う…」について書かれた、「近代哲学の出発点」とも呼ばれるそのデカルトの「方法序説」が発行されたのは1637年らしいからつまり17世紀の本で、更に伝統的な唯心論と唯物論とを対比しつつ、20世紀に顕在化した量子力学観測問題と、21世紀に提唱されたシミュレーション仮説の話題をも包含する『何色でもない花』という歌は、ここ5世紀に渡る哲学の重要な命題に関する大きな流れを睥睨しつつ、それでいて令和のお茶の間に流れる月9ドラマの重苦しくも甘酸っぱい恋物語を淑やかに彩る役割をも果たしてくれている、非常にスケールが大きくかつ振り幅のデカい一曲であるという事が出来るのだった。ヒカルさん、えぇ、貴女は大変な歌を歌っていますのよ。いやはや全くもう。腹減った…。