無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

暴走し過ぎたので未だに減速中です…。


前回折角暴走したので、減速しつつももうちょっとだけヒカルさん宛の内容を書きますか。普段からヒカルさん宛ではあるんだけどね。


量子力学という物理学の話が出たので、よく言われる「目に見えないものを信じる」話とかなり真逆の「目に見えないものなのに、まるであるかのようにみんな信じ切ってるもの」の話をしてみるか。これの例はそう多くはないけれど、あれなんですよ、「エネルギー」っていう一例が完璧過ぎていつもこれを例に挙げてザッツオールになるのよね。


「エネルギー」とは、本来全く目に見えない純粋に抽象的な計量なのだが、人はそれが「そこにある」ことを信じて全く疑わない。これは、考えてみれば不可思議極まりない。我々が普段「目に見えないものを信じることの大切さ」をわざわざ口に出して言う機会が多いのは、な目に見えないものを信じるのがなかなかに難しいからなのだけど、ことエネルギーに関しては、その実在性を疑う人はそうそういまい。


しかし、エネルギーは目に見えない。それどころか耳でも聞こえないし鼻でも嗅げない。味わえないし触れれもしない。


我々は、ものすごいスピードで走り抜けていく乗り物を見て「凄いエネルギーだな」と素朴に思う。強い光を発してるものを見た時や大きな音を耳で聞いたりしてもそこに大きなエネルギーを感じるし、暖かいものには熱エネルギーを、肌を圧す強風には運動エネルギーを感じている。だが、五感が直接感じているのは、強い光であったり大きな音であったり速い速度だったり高い温度だったり強い力だったりであって、どれもが「そこにエネルギーがあるのだろう」と十二分に推察される材料ではあってもエネルギーそのものではない。エネルギーの単位って「質量×長さ×長さ÷時間÷時間」だからね、ぶっちゃけ一体何の事だかさっぱりわからないのが普通なのだが、なぜだか我々はそれが在る事を信じて滅多に疑わない。


その絶大な信頼の例が、(ちと偏った例になるが)漫画「ドラゴンボール」に出てくる「かめはめ波」だ。俗にエネルギー波と呼ばれるのだけれど、なぜだか掌をかざしたらぶぉんと音がして明るく輝いて凄い熱量を伴って凄い速度で飛び去っていく「何か」が出現することになっていて、如何にも「こんなことが出来たらいいな」と読者に思わせることに成功している。ああいう描写はまさに「エネルギーがそこにある」と素朴に信じていることの証左なのだと思う。平たく言ってしまえば錯覚に過ぎないのだが、ああいう描写が受け入れられてこどもたちがこぞって真似事をするくらいに、「エネルギー」という抽象概念は「そこにある」と信じて疑われない。


それは、もう単純に、この言葉が日常のニュースや何やかんやで取り上げられていて、実際に何となく役に立っているからだ。かつては学者の使う抽象概念だったものだが、日常でエネルギー問題が身近になったことでいつのまにか「そこにあるもの」として認識されるようになったのだと、そう推測され得る。


私が思うに、量子力学はまだそうなる途中なのだろう。量子力学的世界観はまだその成立から1世紀経ってない(来年で100周年になるけどね)。なので、まだ量子状態というのは日常的な風景では全然なくって、浸透に時間が掛かっているのだろうな。だからヒカルもうっかり『観測されるまで存在しない』と呟くのだろう。慣れれば、エネルギー同様「そこにある」と錯覚できるようになるんじゃないかな。まだまだ先の話になるとは思うけどね。


さすれば。存在を確信して疑わない「エネルギー」などとは対照的に、我々は「心」という、目には見えない、音も聞こえない、味も匂いもしない、手で触れられない存在について、なぜいつもこうも不安になるのだろう…?という観点からまた『何色でもない花』の話に戻ろうかなと思う。減速終了また次回っ。