無意識日記々

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『曲たち』から読み取る思い


何度も読み返してしまうなぁもぉ。


『新曲たちも今回トラックと歌をレコーディングし直した過去の曲たち、スティーブンにミックスし直してもらった過去の曲たちもミックス全部おわた[emoji:33A] やっとベスト盤のSCIENCE FICTIONとかツアーの話できる心境[emoji:331] みんなどんな1日だったかな🏻‍[emoji:4BA]

https://x.com/utadahikaru/status/1754899823587700871?s=46


私が感動したのは、ヒカルが『曲たち』って言ってること。結構珍しいかも??


goo辞書をちょっと引いてみよう。



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接尾辞「たち」:[接尾]人を表す名詞や代名詞に付く。

  •  複数であることを表す。「子供—」「僕—」
  •  複数の意とともに尊敬の意をも表す。
    • 「大舟にま梶しじ貫 (ぬ) き此の我子を唐国へ遣るいはへ神—」〈・四二四〇〉

[補説]上代では、神・天皇高貴な人に限って用いられた。

[用法]たち・[用法]がた・[用法]ども・[用法]——いずれも人が複数であることを示す接尾辞。◇「たち」は「公達 (きんだち) 」のように元来、若干の敬意を伴う表現であったが、現在では普通に「ぼくたち」「私たち」のように自称に付けたり、「犬たち」「鳥たち」のように動物にも用いるようになった。◇近ごろ「道具たち」のように物に「たち」を付けることがみられるが、これは正しい使い方とはいえない。◇(以下略)



https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%9F%E3%81%A1/



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そう、基本的に、接尾辞「たち」を無生物につけるのは誤用なのである。だが私はそれを知りつつこの日記で無生物たちに「たち」をつけまくっている(今もつけた)。理由は単純で、その対象に対する感覚が人や動物と変わらないからだ。


特に「曲」というのはねぇ。擬人化して言いたくなるのよ。恐らく、作曲者にとってみれば我が子のようなもの。普段自分が過去に書いた曲を聴かないというヒカルが、今回25年分の自らの歴史を振り返ったのだ。いつもと違う感情が湧いてきても致し方なかろう。


きっと、普段全然相手にしていない曲たちに対しても「よぉ!ひさしぶりじゃん!」という気持ちになったのではないだろうか。曲は単なる楽譜でもなければ単なる音の波形の集合体でもない、もっと生き生きとした、まるで生き物のような何かであって、録音した時のままの姿であっても、誰がいつどこでどんな風に鳴らして聴いているのかで全く違う表情を見せてくれる。いやホント生き物なんですってば。


そもそも、くまちゃん(Kuma Chang)て綿じゃん? なのにヒカルはこの18年間、くまちゃんがまるでそこにいるかのように…いや、”まるで”も”かのように”も要らないな、「そこに居る」という確信を以ってずっと接してきた。そのことを疑う人はここを読んではいまい。


曲は綿でなく音ではあるが同じ事だ。接して、会話して、そのプロセスを経てこちらもあちらも変化を被る。そうなのだ、曲は変わり続けるのよ。たとえ音源に刻まれた波形が全く変わらなくても、存在とは関わった相手との時間の総計なのだ。今日もまた誰かがヒカルの昔の歌を聴いて、新しい気持ちに出会う。その出会いの積み重ねが曲たちの成長として刻み込まれていくのだから、いや、うん、人と変わらんのよ曲って。


ヒカルは何気なく、少し洒落た気持ちで曲を擬人化したのかもわからないが、こう書いてしまった事実はもう変わらない。変えられない。今回のベスト・アルバムの作業を通じてヒカルの中で過去曲たちとの付き合い方が間違いなく進化した筈である。なので、ライブで聴ける過去曲のパフォーマンスもまた進化を遂げることになるだろう。そのことをこの「たち」は如実に教えてくれているのだ。ね、そりゃ感動するでしょ? コンサートへの期待が更に3割程は増したかもしれない。これ、ベスト・アルバム『SCIENCE FICTION 』を実際に聴いたらどんなことになるのやら。当初思ってたよりずっと宇多田ヒカル史に於いて重要な作品になるかも、しれませんよこのベスト盤は。昔の曲たちよ、すげーなおまえらは!