無意識日記々

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『知らない街の/残り香と』

前回は寄り道しまくりだったので今回は簡潔に。『部屋』の話。

もう一度2番の歌詞を引用してみる。

『証明されてない物でも

 信じてみようと思ったのは

 知らない街の

 小さな夜が終わる頃』

前回の1番目の解釈を採用してみよう。初めて来た知らない大きな街の雰囲気に感化されたのか普段の真面目さを脱ぎ捨てて火遊びに陥る主人公。小さな宿で今夜初めて会った相手と興じる。…まぁ、よかったんだろうね。朝を迎える頃にはすっかり虜になり「この人こそ運命に違いない」と普段とは違うシチュエーションに酔っていた。それが2番のサビに繋がる。

『飲みかけのワインも忘れ

 ほろ酔いのあなたと

 夢を見てた

 夢を見てた』

あれですね、ワインでも傾けながら落ち着いた大人トークでもしましょうかとグラスに注いだはいいけれど2人とも抑えられなくなってワイン放置しちゃったんでしょうね。お若いこと。おぢさん羨ましくなっちゃう。いやそれはいいんだ。

『部屋』だ。

この解釈に立つとすれば2人が出会ったのは『私の部屋』ではなく『知らない街の小さな宿の一室』ってことになる。そこまではまぁいい。問題なのは、では、先に1番の歌詞で描かれていた“別れの場面”は、どこの部屋での出来事なのか?である。

知らない街で知り合った2人はこのあとも逢瀬を交わし続け、それなりの交際を経る。すれば『私の部屋』で逢う事もあるだろう。そこで別れを切り出されたという場合、冒頭の『残り香と私の部屋で』は『残り香と、私の部屋で』となる。

もっとスパンが短いかもしれない。知らない街で数回逢っただけで主人公はすっかりお熱(真面目だった人にはよくあることだわな)、しかし相手はただの遊びのつもりだった、と。それであればここは知らない街の宿の部屋のままであって私の部屋ではないのだから『残り香と私の部屋で』は『残り香と私・の部屋で』となる。

もっと短くてもいい。歌全体が一晩の出来事。つまり、一度の逢瀬で「私達もう恋人同士だよね」な雰囲気を出した主人公に対して「そんなんじゃねーよ」と逃げていく相手。当然ここは先程のまま「知らない街の知らない部屋」でしかない。『残り香と私・の部屋で』になる。

とまぁかなり情緒を排しておっさんくさく纏めたが、それぞれの解釈が他のパートとの整合性をある程度無視しているし、同然この歌の主眼はそこにはない訳で。寧ろもっと情緒的な側面を強調して捉えるべきだ。何しろ歌の題名が『残り香』という“女流詩人らしい"名付けなのだから。なので次はベクトルを逆にして残り香の側から全体を俯瞰してみるとしよう。

『小さい夜が/残り香と』

引き続いては『残り香』の2番の歌詞を検討するのだが、ちょっと寄り道を。

『Fantome』収録の『荒野の狼』。このタイトルをインスパイアしたのはなりくんだとヒカルがラジオで証言している。で、そのなりくんのソロ曲『Lonely One』にはヒカルがゲスト・ヴォーカルとして参加しているのだが、その曲で彼の歌うパートにこんな歌詞が出てくる。

『僕らおおかみ

 荒野でひとり』

と。明らかにヒカルの『荒野の狼』を意識してのことだろう。何を2人でイチャイチャしとんねんという感じだが、さてまぁ寄り道はこれぐらいで。

『残り香』の2番の歌詞はこうだ。

『証明されてない物でも

 信じてみようと思ったのは

 知らない街の

 小さな夜が終わる頃』

この冒頭の『証明されていない物でも』の言い回しに戸惑った人も多かろう。ぶっちゃけちょっと変だ。そういう印象を与える事は、しかし、ある程度意図的だとみる。

先程寄り道をしたなりくんの『Lonly One』だが、今度はヒカルが歌うパートにこんな歌詞が出てくる。

『ロジックだけでは導き出せぬ数式半ば』

唐突な数学の話。これもまた面食らった人が多かったが、つまり、この頃のヒカルはこういった言い回しを好んでいたという風に受け取ってもいいのではないか。然るに、『残り香』の『証明されてない物』の“証明"もまた数学の話だと考えた方がいいのかもわからない。つまり、素性がわかるわからないというのもあるが、『真理・真実であると確信できること』が主たる動機・必要であるという事がこの『証明されてない物でも』の一節から読み取れるのだ。

とすると、朧気ながらもこの2番の主人公の性格みたいなものが見えてくる。数学の証明のように確かに正しいと認められる物しか信じない、石橋を叩いて渡るような真面目な性格の人が知らない街で思わぬ出逢いを果たした。柄にもなくときめく心。なんだろう、とてもありがちなストーリー。

ここで『小さい夜』という一節が効いてくるんだな。この短いセンテンスから何を読み取るかで『残り香』の景色が大きく変わるのだ。

例えば。知らない街が大都会だった場合、その片隅に小さな宿をとり2人で狭い部屋で過ごして朝を迎えた(夜が終わる頃)、なんていう場面を思い浮かべる人も居るだろう。

例えば。知らない街が全体として小さな界隈でしかなく、普段都会で感じている賑々しくいかがわしい猥雑な喧騒から遠く離れた静かな佇まいを「小さな夜」と表現しているのかもしれない。

どんな風に捉えてもよいと思う。それぞれの捉え方で、しかし、前回一番の歌詞で推理したように、サビの歌詞の解釈が変化していくのだ。寄り道をした分この続きは次回に持ち越しね。やれやれあーあ。

 

『つい先程/残り香と』

週末にタイムラインで『残り香』の歌詞の話題になってて。自分も混ざろうかと思ったのだが140字の中では長文過ぎて間違いなくいつものようにスレストッパーになるので自重した。大人しく自分の日記に書くとしよう。

話題は『残り香と私の部屋で』の『残り香と』がどこにかかるのか(名詞なのか動詞なのか等々)という点だったのだが、これは私もわからない。ヒカルもここは雰囲気でいいと思ってるんじゃないかな。

とはいえそれだけでは面白くないので違った方向から検討してみよう。他のパートの歌詞の内容から推理するのだ。

まず冒頭。

『壊れるはずがない物でも

 壊れることがあると知ったのは

 つい先程』

シンプルに捉えれば、これは破局の比喩だろう。揺るぎない確固たる関係、言うなれば永遠の愛を誓い合えたはずの相手との関係なくも、現実にはあっという間に壊れてしまった。すっかり勘違いして自分自身に酔っていた、と気付かされた瞬間だ。こうシンプルに解釈すれば『つい先程』は文字通りつい先程であって、残り香とは目の前に現実に破局相手の香りが残っていると解釈できる。香りといっても嗅覚に基づいている必要はなく、相手が何か置いていった持ち物でもいいし、この後歌詞に出てくるように飲みかけのワインでもいい。書き置き手紙でもいい。その人が居た“気配”を感じられるものなら何でも構わない。

だがもう一歩踏み込んだ解釈も可能だ。この時、本当に何か物が壊れたと解釈する。どういうことかというと、歌の主人公はその様子をみて漸く二人の関係が壊れて修復不能になった事に気付いたのだ。「ああ、あんなにずっと使ってたワイングラスもこんなに簡単に壊れちゃうのか」みたいになった時点でやっと自分の中で破局を受け入れられた。つまり、実際の破局はこれより少し前の出来事であって、主人公はあまりのショックに現実逃避していたが、この度目の前で物体が破壊されたことで漸く破局を受け入れるだけの冷静さが戻ってきた、と。この場合壊れた物体はワイングラスじゃなくても二人の思い出の品とかでもいいかもしれない。

この解釈に基づけば、『残り香』はもう実際に部屋には無い。相手の居た気配すら消えた部屋でその気配を求めて彷徨う主人公の描写となろう。

斯様に、歌詞の他の部分の読み方ひとつでサビの歌詞の解釈も変わる。次回では更に他の箇所の歌詞でもどうなるかをみてみよう。

時代は廻って戻ってくる

まぁつまりヒカルのデビューとインターネットの普及開始がほぼほぼ同時期だった訳。その初期を支えたガラケー時代ってのはそのまま『First Love』の大ヒットから『Flavor Of Life』の大ヒットまでの時期。

一方、スマートフォンの本格的普及はヒカルが人間活動を始めてから、だ。故にヒカルは2016年にいきなりスマートフォンが生活必需品になった世界に飛び込んできた。市場的にはね。

音楽に限らず、視覚と聴覚に頼る文化の中心はスマートフォンに移っている。「最近の若者はパソコンに触らない」というニュースを初めて聞いた時は面食らったものだ。嗚呼、スマホで全部出来るからか…と。

ヒカルは初期にSONYのMDの他に、docomoガラケーのCMにも出ていた。FOMAと言っても通じないかもしれない。時代とシンクロしていたのだ。

最近ではSONYのワイヤレスイヤホンを自ら着けてCMに出演していたが、ここらへんでもう一歩踏み込んでスマートフォン文化の何某かのCMにも登場してこないかな、とそう思うのだ。radikoのタイムフリーとのコラボレーションは見事だった。スマートフォン本体のCMというより、そういった新しいサービス、時代を切り開くような経験を新しく創り出す“商品”のCMにそろそろ出てくれれば、ちょっと新しい局面が見える気がする。広告代理店で選択と決定を担う世代がそろそろガラケーネイティブ位になる筈なのよね。あの頃のヒカルの新鮮さを思い出しながら起用を考えてくれないかねぇ?

書きかけだけど投稿しちゃる

令和の時代はそろそろ“ケータイ文化ネイティブ”が社会の中核に進出し始める時期、だわな。中高生の頃eメールのやりとりをしケータイ小説を読み着メロに凝り…多分、全く違う感覚で社会を構成してくれるだろうから楽しみだわ。

でまぁそんな世代に対してヒカルは『Flavor Of Life』というデカいタマを持っている。2007年というiPhone目前、着うたと着うたフルというケータイ文化も末期の頃に大ヒット曲を持っているとなると、この世代に対する印象度が違うだろう。

この世代が物事の決定権を持ち始めた時期にまたヒカルが再評価されるのはちょっと興味深い。ヒカルは、今では当たり前になった「有名人が自分の言葉で発信する行為」をかなり早い時期から実践していた。i-modeと同い年と言ったら…あ、逆に通じないか?(汗) 兎も角、まずはインターネット黎明期世代がヒカルの支持者になっていった訳なんだわ。

でだな…ええい、今朝は時間が足りないわ。この続きはまた稿を改めて。