無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

イメージの時代性

といいつつ、折角なので前回の続き。(どないやねん)

ミュージシャンがことばをはじめとした表現のイメージに大きく左右されやすいというのは、今回いろんなアクションを自発的に行ったり逆にニュースの見過ぎで(?)体調を崩したりしたことからもわかる。普通にいえば"感受性が強い"という言い方になるのだが、何をどう感受しているかによって結果は様々になる。それによって生まれた作品が、どんな層に訴えかけるかをみてみないことには、その評価は出来ないのだけど。

作詞にそれが反映される場合、当然ことばはイメージが重視される。例えば、"津波"ときいたときの日本人のイメージは今回また大きく変わった筈だ。インドネシアの時も強烈だったが、今回同じ国で同じように人が住んでいた街が流されていくのを映像でみせられたのはやはり違う。今迄"津波50cm"と聞いても何とも思わなかったのが恐怖を喚起するようになる…そういった効果がテレビにはある。ことばをどんどん左右していくのだ。

斯様にことばは時代や時機、地域性といった文脈に依存する。辞書的に定義された意味はできるだけことばを固定的に扱う方向に動き、解体され構造化されるが、ことばの印象は歴史・履歴に依存し、膨張と収縮を繰り返し、変化し続けていく。ことばの印象に正しいも間違いもなく、各人の物語にしたがって存在が規定し直され続けていくのである。

光は、そのことがよくよくわかった上で作詞を続けている。PHSBlackberryもその時々のアイテムであり、その時の文脈でしか意味が通じない(その時の印象に左右される)のを覚悟の上で歌われている。今昔の歌を聞いても、その当時の風俗を喚起するという歴史的な意義はあっても、今の生活に直に響くようなものではない。その意味において光の書く歌詞は、制作された(リリースされた)タイミングで聞いてもらう事が肝要となる。いつも作詞を締め切りギリギリまで引っ張っているが、知ってか知らずか、その時点でいちばん新鮮なことばを封じ込める結果となっているのだ。

なので今。光の中にことばが生まれているのなら、すぐカタチにしてリリースする必要があるだろう。他の多くのアーティストたちはもうアクションを起こしている。配信という技術を利用して既に歌は人々の許に届いているし、CDも暫くすれば発売になってゆく。光がその流れの中に身を投じるか否かは、光の中から届けたいことばが生まれてくるかどうかを見極める必要がある。


しかし…、と話を続けると長すぎるので今回はこの辺で。