無意識日記々

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誰かが亡くなった時

女優の田中好子さん、スーちゃんが亡くなったらしい。そんな年齢か?と思ったが長い間闘病生活を送っていたらしい。ご冥福をお祈りします…と書こうとしたが、一部に"冥福"とは特定の宗派の用語だから相手によっては使用に気をつけた方がいい、という意見があるそうだ。

では、違った言い方をしようと例えば"謹んでお悔やみ申し上げます"とか"哀悼の意を捧げます/表します"等を考えてみるが、どうも抵抗感がある。"ご冥福をお祈りします"の方が気持ちにしっくりくるのだ。どうしてだろうと考えてみると、なるほど、確かに誰かが亡くなったのは残念ではあるけれど、故人に対して接点がある訳でもないのに"(謹んでお悔やみ)申し上げます"とか"捧げます/表します"といった「方向性をもったことば」を使うのは少し出過ぎた感じがしてしまうからではないか。

この場合、遺族の皆さん、或いは故人に対して語りかけるという"方向性・志向性"を"申し上げる/捧げる/表す"といったことばが持つ訳だが、一方"祈る"ということばにはそういった方向性があまり感じられない。どこか世界の遠くの場所に、亡くなられた方を悼む気持ちがあったりしますよ、という控えめな感情を表現するのには"祈る"という言い方がいちばん近しいのだ。

つまり、冥福や哀悼やお悔やみだとかいった名詞の方ではなく、言うとか表すとか祈るといった動詞の方の選択として、"冥福を祈る"と言ってしまうのである。冥福という単語はその選択に巻き込まれるかたちで発せられている為、なんだ、やっぱりこういう時にどういえばいいかはむつかしいな。

斯様に"祈る"、"祈り"ということばは志向性の薄い、存在としての感情を指すことが多いが、それは裏を返せば対象に対して処する術をもたないもどかしさやつらさをも含意してしまう。光が小さい頃から自分の意志で動けることが殆どなかったり(いつも勝手に引っ越しを決められていた)、何事にも強烈な無力感を感じて育っていく中で、この志向性のない、というか志向性を閉ざした"祈り"を育んできたことは想像に難くない。その、世界に対するどうしようもなさ、無力感が初期からずっと「宇多田ヒカルといえば"切なさ"」といわれるくらいに音楽に切なさを与えるようになったと考えれば、この志向性を閉ざした、存在としての感情である"祈り"の気持ちが切なさの源泉であり、またそうやって生まれた切なさの表現が新しい祈りを生む、という環ができあがったことで光の音楽に一貫して切なさが感じられるようになっていったのではないだろうか。

今の状況において、自分に何が出来るんだろうという焦りや無力感は誰しも感じ得るものだろうが、とりわけミュージシャンにはその気持ちが強い気がする。それは、性質上音楽という営みが世界に対して基本的に"何もできない"存在だからだ。だからこそそこには祈りの感情を託し得るし、また託さなければならない。宇多田ヒカルの切なさは、音楽のもつ根源的な無力感、祈りの感情をこれからも表現し続けていくんじゃないかな。