さてヒカルの歌詞におけるジェンダー論に戻ろうと思ったら、以下の記事が視界に入ってきた。
「ビョークの「女ことば」への翻訳の違和感と、男尊女卑の歴史を持つ日本語を巧みに使い分ける宇多田ヒカル」
https://wezz-y.com/archives/34462
要は、翻訳の時に「〜だわ」「〜なのよ」みたいな語尾をつけて女性性を出すにあたっての留意点みたいな話なのだが、そういう視点から見た時もヒカルの言葉に対する感覚は注目に値するらしい。
ヒカルも「女性性」を意識して歌詞に盛り込む事がある。例えば『Stay Gold』は
『大好きだから ずっと
なんにも心配いらないわ』
という歌詞で始まる。冒頭で語り部の女性性を強調してくる為、以降の中性的な言い回しの多くが女性的なニュアンスとして回収されていく。
他方、『Beautiful World』では
『僕の世界消えるまで会えぬなら』
という風に、語り手が恐らく少年であろうことを強く示唆する歌詞も出てきたりする。(勿論個人的には僕っ娘を推したいがそれはまた別の機会でいいですね)
これらのように、ヒカルは歌詞の中でも自在に性別……というか「男性性」や「女性性」を使い分けていく。そんな中でもいちばん外せないのが当時自ら「最高傑作かも」と大いなる自信を吐露したあの歌だ。そう、『ぼくはくま』である。
『ぼく』と言うからには歌い手は男の子なのだろう(再び僕っ娘は却下)。ヒカルの現実での寄り添い相手である『Kuma Chang』が男の子なのだから自然なことなのだが(彼と戯れている時に生まれた歌だしね)、彼、皆さんもご存知の通りゲイなのである。ここがフラットなんだよね。感性が。
Kuma Changの性的志向は後付けなのでは?という疑問も当然あるだろうが、ヒカルの場合、それが過去の発言と整合する事はお見通し済みなのだと思われる。つまり、いつそれを言っていたとしても、後から過去の発言を振り返った時彼はやっぱりゲイなのだ。そして、『ぼくはくま』の歌詞もまた同性愛者の物語なのである、と言い切っていいのである。
勿論ここでは所謂「オネエことば」のような表現は無い。だが、ゲイの男の子が
『けんかはやだよ』
とか
『ライバルは海老フライだよ』
とか歌っていると思うと、何故だろう、これが偏見というやつなのだろうね、とてもいじらしさや愛おしさが増すように思う。それもあってヒカルはKuma Changのカムアウトを助けたのだとしたら、これほど「男性性」や「性的志向」を玄妙に活用した歌もないかもわからない。今訊いたら違うかもしれないが、やはり当時最高傑作と胸を張っただけのことはある。それくらい未来を掴み取ってこれないとヒカルの歌は務まらないのだ。そこを踏まえた上でジェンダー論を展開出来たらいいな、なんて思っていますよっと。かなり難しいのは承知の上だけども。