無意識日記々

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びびんぼう

音楽というシンプルなものが人間の複雑な感情を喚起する不思議も、逆からわかりやすいかもしれない。シンプルで美しいものに触れたとき、人はその補償代償としてややこしいものを内に抱え込む。極論すれば感情とは美への誤解から生まれるという解釈だ。

そうやってみることで見通しはよくなりはする。エロティックな考え方(美至上主義、耽美)である。生存競争や勝負事と異なり、美を追究する心は自らの内にしっかりと維持しなくてはいけない。裏を返せば、その時代々々の新しい価値観を切り開くのは、従って、耽美的な側面の強い人物、"アーティスト"たちとなる。

彼らが切り開いた跡地に基準が生まれ、人は競争を始め、勝ち負けがつく。故に人の勝ち負けが過剰に囃される状況は、時代を導くアーティストの不在、或いは不要を意味するものだ。

その意味で、ポップミュージシャンの立ち位置は難しい。商業的な成功は、大抵の場合既に確立された価値観の中で測られる。数字で白黒つけようという考え方だ。大衆の価値観を見極め、それにそぐう音楽を提供する。既に"何なのかわかっている"音楽が生産され、安定した感情が流通してゆく。

宇多田ヒカルの立ち位置は、故に何やら滑稽ですらある。前人未踏の大記録だったからといって別に音楽的に未踏の地に踏み入った訳ではない。とはいえ過去にあったかというとそうでもない。しかし大衆の心を捉えたのは王道中の王道であるFirst Loveであった。

以後の光も、順調に音楽的成長を遂げながら、Popであることを忘れなかった。言い方はよくないが、常に大衆の目を気にしてきたのである。一方で上記したようなアーティストとしての気質も確かにもっている。つかずはなれずというか、ファンは見捨てられた感じのしない生活を送っている。

併せて考えれば、既定の価値観上に置ける"勝敗"、この場合は売上等の数字も、やはり気にし続けなくてはならなくなる所だが、果たして何の基準で物事を測ればいいのか悩む時代である。枚数なのかDL数なのかPV数なのかオンエア数なのか動員数なのか。何でも数値化されるが故に基準が曖昧になるという逆説的な時期。

こういう時に大切なのがアーティストたちの"内なる声"による導きなのだが、音楽に、少なくとも日本のPop Musicに何らかのかたちで繋がり得る音楽達の中に、そのような導きをみつけることが出来るだろうか。

光の場合、導く手を差し伸べるのではなく傍に寄り添って、動けなくても一緒に居てくれる感覚が強い。それは本来"home"という概念なのだが、果たしてそれにまた辿り着けるのはいつの日になるのだろうか。まぁ気長に待ちますかね。