無意識日記々

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見つめ合う2人 止まる時間

理想的には、時間経過を経験しない存在がある。光である。寧ろ、光の速度から遅くなる現象の事を時間と呼ぶべきか。まず最初に時間と空間の比(光速度)があり、それを基本にして電磁気学をリニューアルしたのがかのアルバート・アインシュタインである…

…という書き始めで話を始めてしまってはいつまで経ってもタイトルの話題に至らないな。話をずらそう。

宇多田光の音楽は常に"そのジャンルの最高傑作形態"で世に出る為なんだか前後の繋がりがない、とは前にも指摘した。前作のココが物足りないと思ってたんだよなぁ、というポイントが今作では狙い通りに改善されていて溜飲が下がる、という事が少ない。Passionは光があの作風の路線で書ける最高傑作であり、あの曲の続編や発展形は特に考える必要がない。他の曲も然りである。

光は何故常に最高傑作を書けるのか。それは、何か楽想に触れればそこから"過去と未来"を見通せてしまうからであろう。このアイデアはここまで辿り着ける、と真っ先に見極めて、そして事実そうなのだ。恐ろしい。

つまり、光にとっては確定した過去も不確定な未来も蠢く現在も何れも変わらず"今ココ"に在って、同じようなものでしかないわけだ。そんな風に世界を見られる存在は、そう、冒頭に書いたように光しか無い。光速度とは時間を感じない境地の事なのだ。

勿論それは理想的な話であって、現実の光、光子(こうし、じゃ変換出なくってみつこで変換した)は他の存在と相互作用して生成消滅する。真空の、そこからここに至る間に歳をとらないという話なのだ。

時は、流れる。その流れをひとは物語と呼び、流れをまた空間の中に静的に閉じ込める事を"本"と呼ぶ。光が本を好きなのは、本も光と同じように時間を凍らしているからだ。本と光は同じ孤独を共有する。それは、誰が書いたかに依らない。光にとって、本という媒体自体に意味がある。

本は、それが面白ければ面白いほど光に見つめられ続ける。羨ましい。光の目に光が飛び込み、本の上に凍った字が解けだし踊り出す。しかし、光の目を跳ね返った光は行き場所を失う。それが帰るところを見つけられるのは、人と見つめ合っている時である。

2人の瞳の間を光が行き交う。2人の間を遮るものがなければないほど、光は自由に行き来し、2人は相手をまるで本を読み解くように理解してゆく。光の自由は、時の流れをひとつ高い次元の静物として昇華される。見つめ合う2人の時間は、本当に止まるのだ。

時間は、余所見をした時に流れる。じーっと時計を見つめていると、時間の経つのはとても遅い。ふと横にある何かに気をとられると、あっという間に時は進む。ならば見つめ合え。

時間が流れているとき、それは何故かあちらからこちらという方向性をもつ。ならば見つめ合え。2人の間に光が飛び交うのなら、時間の流れは止まっている。封じ込められるのは、2人の時間なのだ。


もし光と目と目が合うのなら、その瞬間は永遠に冷凍保存したい。ここを読んでいるあなたなら、そう思う筈である。今、私にあなたと言われて私と目が合った気がした? それはとても余計なことをしましたどうもすみません。

あのくるりんとした大きな瞳で見つめられたら、どんなハンコでも押してしまいそうだなぁ。離婚届以外なら。よくも押したもんだよ。(なんだこのオチ)